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「今日は勝負服で来ました」

 黄色いミモザの花があしらわれたエプロンを身に着け、藤原るかさん(67)はそう言った。向かった先は東京高等裁判所。原告となった裁判の口頭弁論に臨むためだ。

訪問介護ヘルパーの現状と問題

 藤原さんは現役の訪問介護ヘルパー。33年のキャリアを持つベテランだ。利用者宅を訪れ、掃除や着替え、排泄、食事や入浴の介助といったサービスを提供、在宅介護を支えてきた。

 少子高齢化が加速する中、介護危機が叫ばれて久しい。とりわけヘルパーが働く現場は深刻だ。人手不足は常態化、2020年に厚生労働省が発表した統計によれば、ヘルパーの有効求人倍率は約15倍にまで達している。訪問介護事業所の倒産も相次ぐ。

「すでにヘルパーは絶滅危惧種と呼べる状況。このままでは日本からいなくなってしまいます」(藤原さん)

藤原さんはヘルパー歴33年のベテラン。制度改定に伴う「介護の質」の悪化も懸念する

 危機感を募らせる藤原さんは'19年11月、同じく訪問介護ヘルパーである伊藤みどりさん(70)、佐藤昌子さん(67)と3人で、東京地裁に国家賠償訴訟を起こした。'22年11月、地裁に請求を退けられたが控訴し、'23年3月22日、東京高裁で2審がスタートした。

 ヘルパーが国を訴えるケースは異例のこと。前代未聞の裁判への関心は高く、同業者や介護関係者、利用者の家族らで傍聴席は埋めつくされる。

 注目を集める理由は、もう1つある。「ヘルパーが極度の人手不足で低賃金、不安定な働き方を強いられているのは、介護保険制度に原因がある」として、制度自体が持つ問題を取り上げ、そこに切り込んでいるからだ。

 原告のひとり、佐藤さんは東京高裁に提出した陳述書に、次のようにつづっている。

《介護保険は、事業所が後継者を育成するために正社員を増やしたり、「出来高払い」のヘルパーに生きるための安定した賃金を保証したりすることができない仕組み》

《国は事業所に責任転嫁しています》

 原告たちが'21年に行ったヘルパーへの実態調査では、事業所に登録して働く非正規雇用が約7割を占めていた。年収は150万円以下が7割で最多。

 佐藤さんが指摘するように、こうした登録型ヘルパーの賃金は「出来高制」だ。サービスを提供した時間に応じて、日当が支払われる仕組みになっている。

 実際の働き方はどうなっているのか。原告の伊藤さんにスケジュールを見せてもらうと、利用者宅への「移動」や、次の仕事までの「待機」といった時間が目立つ。

「例えば、朝8時5分から夕方5時5分まで拘束されて5軒の利用者宅を訪ねて回り、日当は5682円。これだけにしかならない。

 移動や待機については、厚労省は事業者に対し、労働基準法をもとに賃金を支払わなければならないと4度、通達を出しています。それでも移動1回につき100円と安かったり、支払われないケースもあります」

 伊藤さんの働く事業所では、グーグルマップで表示される訪問先までの距離と時間をもとに、移動の賃金が支払われている。

「想像してみてほしい。マップ上では6分と表示されていたとしても、仕事が終わり、着替えてエプロンをしまい、自転車に乗るまでさらにかかる。階段を下りる時間も想定されていません」(伊藤さん)

 体調が急変しやすい高齢者は、予定していた訪問をキャンセルすることも少なくない。ところが前出の実態調査では、休業手当が「必ず支払われている」ケースはおよそ2割に満たない。

 再び藤原さんが言う。

「キャンセルが出ると事業所にも報酬が入らなくなります。コロナ禍での利用控えもあって、事業所の経営状態はどこも厳しい。

 労働基準法を守り、待機や移動にかかる正当な賃金をヘルパーに支払うと、事業が成り立たない。実質的に労働基準法を守れない制度になっているのです」

控訴審にあたり、佐藤さんは「私たち原告の力をどれだけ強められるかが重要」と語る

ヘルパー不足で加速、一家心中のリスク

 介護保険制度の費用は40歳以上が納める介護保険料と、国や地方自治体の税金とが半々でまかなわれている。そこから各事業所に介護報酬が支払われるわけだが、その金額は国が定める「公定価格」で決まる。

 3年ごとの改定のたびに、介護報酬は大きく引き下げられてきた。さらに物価高も重なり、「過去にないほどの厳しい経営状況」であるとして、介護サービス事業者で組織する11の団体が4月28日、対策を講じるよう求める要望書を自民党に提出したほどだ。

 介護保険をめぐる問題に詳しい、鹿児島大学の伊藤周平教授が指摘する。

「事業所に入る介護報酬そのものが、移動や待機の賃金を支払える額になっていません。岸田首相は介護職の処遇改善のため、1人あたり9000円の加算を行ったとしていますが、賃金に反映されているのは2000~3000円程度とか。

 そもそも一時的に増えただけではヘルパーの基本給は上がらず、人手不足の解消にもつながりません」

 介護労働安定センターの'21年度調査によれば、ヘルパーの平均年齢は54.4歳。注目すべきは60代以上が37.6%を占めていることだ。

伊藤さんは「最低賃金も物価も上がっているのに、ヘルパーの賃金は横ばい」と実態を明かす

 原告の伊藤さんは、「ヘルパーのほうが利用者よりも年上で、遠慮して要望を伝えにくいという人もいます」と話す。

 こうした「老老介護」はいつまでも続けられるわけではない。新たに若者が入ってこないばかりか、ベテランの離職も目立つ状況にあるからだ。伊藤さんは懸念を隠さない。

「1回90分だった訪問時間が'06年には60分に、'12年には45分、30分、20分になり、短時間で多くの利用者宅を回る細切れの働き方に変わりました。サービス内容も生活援助が減らされ、排泄や入浴など身体介助が中心になりました。

 ですが、訪問介護は利用者に選択してもらってケアするのが基本。“お茶にしましょうか?お水にしましょうか?”とか“今日着るのは、この服がいいですかね?”などと聞いて、本人に選んでもらうことが重要です。

 利用者との対話を通して、心身の状態を把握することも欠かせないのに、時間がとれない。認知症の悪化や体調変化を見逃すおそれもあると思います」

 人手不足でヘルパーを確保できなければ、家族で介護を担うしかない。

「家族の負担が増えるほど一家心中や高齢者虐待、介護離職などのリスクはより増していくでしょう。孤独死も増えるかもしれません」と伊藤教授。こうした事態を防ぎたければ、介護保険制度を根本から見直すべきだと強調する。

「ヘルパーの賃金が上がらない理由は明白です。元手となる介護報酬を増やす必要があり、それには私たちが支払う介護保険料を増額しなければなりません。

 しかし、介護保険料は低所得者ほど負担が大きく、年金額の半分を占める人もいます。それよりも国の予算をケア労働に優先的に配分し、介護報酬の増額を図るべきでしょう」

 原告たちは、この裁判で「ケアを社会の柱に」という言葉を掲げている。

「誰もが介護のお世話になるときが来ます。無関係ではいられない。なのに、なぜケアの現場で働くことが社会の中で一段低く見られているのか、謎でした。その謎を解き明かせないうちはヘルパーを辞めるわけにはいかない。

 裁判を通して、生産性や効率では測れないケアの重要性を伝えていきたいです」(藤原さん)

1審は敗訴。だが多数のメディアに報じられ、注目度の上がった2審への期待が高まる

 裁判の次回期日は5月31日。異次元の高齢化が進む今こそ、注目してほしい。

(取材・文/徳住亜希)