「夫は温厚で、声を荒らげたことなどない人でした。それが最近、些細なことですぐキレて大声を出したり、近所の人に無神経な言葉をかけたりするようになったんです」と話すのは60代のAさん。
人間性が失われ人格が崩壊
「性格があまりにも変わってしまって、どう接したらいいのかわからない」とAさんは戸惑う。このように穏やかだった人物が、ある時期から理解不能な振る舞いをしたり、別人のように粗暴になったりする背景に、脳の病気が隠れていることがある。
その病気とは認知症の一種である「前頭側頭型認知症」(※)。日本ではあまり知られていないこの病気について、医師の谷口恭先生に話を伺った。
※英語では「Frontotemporal Dementia」。海外では一般的に「FTD」と呼ばれる
「前頭側頭型認知症は、その名のとおり、脳の前頭葉と側頭葉がダメージを受けることで発症します。大まかにいうと、前頭葉は“理性”、側頭葉は“言語”を司る部位。
これら人間に特有の機能が失われていくため、進行すれば人間性を失い、人格が崩壊してしまいます」(谷口先生、以下同)
昨年2月には、ハリウッド俳優のブルース・ウィリスが前頭側頭型認知症と診断されたことを家族が公表。世界中で大きな話題となった。
「前頭側頭型認知症になると、理性が失われるので、たとえ聖人君子のように高い倫理観を持つ人でも、見境なく暴言を吐いたり、交通違反や無銭飲食、万引きなどの反社会的行為を繰り返したりします。
中には暴力や性暴力を振るう人もいますが、本人にはそれが悪いことだという意識がまったくありません。いくら諭しても同じことを繰り返すため、周囲は対応に非常に苦慮することになります」
言語機能が失われるため、絶対に知っているはずの言葉の意味がわからなかったり、会話がかみ合わなかったりするのも、特徴的な症状。
その他、初期によく見られる症状には“同じ行動や言葉を繰り返す”“人の顔がわからなくなる”“食の好みが急に変わる”などがある。
高齢者だけでなく30代や40代で発症するケースも。イギリスの新聞『The Telegraph』で紹介された2つの事例を紹介する。
【事例1】オックスフォード大学で修士号を取得しているマークさんは40歳で発症。かつては温厚な性格だったが、他人に無神経な言葉を連発するようになった。やがて目についたものを手あたり次第に食べるようになり、ついにはせっけんや石まで口にするように。妻や子どもがいくらたしなめても、これらの行動は止まらなかった。
【事例2】がんを専門として働いていた看護師のアンナさんは36歳で発症。以前は献身的で思いやりのある看護師だったが、大声を出し、他人に失礼な言動を繰り返すようになった。奇声を発したり、壁に頭を打ちつけたりする不可解な行動も出現。食べ物は炭水化物しか口にしなくなった。
「記事によると、2人とも前頭側頭型認知症の診断がなかなかつかなかったそうです。実はこの病気は、発症してもしばらくは知的水準が低下せず、記憶力も保たれます。
ですから、家族はもちろん医療者でも異常な言動の原因が脳の病気だと気づかないケースがほとんど。2人とも若いですから、その点でも診断がつきにくかったのでしょう」
この病気は残念ながら治らない。予防法もなく、ひとたび発症すれば、あとは進行するのみ。
「現在、わかってきたのは発症には遺伝が関わっている、ということ。研究によると、患者のうち4割が遺伝性とのこと。また、この病気を引き起こす遺伝子変異は、10数種類が知られています」
疑わしいのはキレて会話にならない患者
実際に発症する人はどのくらいいるのだろうか。
「世界的にはすべての認知症のうち、5~10%が前頭側頭型認知症と推定されています。一方、厚生労働省によると日本の認知症患者の中で前頭側頭型認知症が占める割合は、わずか0.4%。別のデータでも、0.17%や1%で、日本では非常に少ない、ということになります」
日本人は前頭側頭型認知症になりにくい、ということ?
「この病気を引き起こす遺伝子変異が日本人には起こりにくい可能性は確かにあります。しかし私の個人的な見解は、そうではありません。ただ単に診断がきちんとなされていない事例が多いだけではないか、と考えています」
認知症の中で最も多いのはアルツハイマー型だが、多くの場合、本人や家族が物忘れなどの初期症状に気づいて病院を訪れる。
「私の病院に、認知症が疑われる患者が来院したら、時間をかけて問診を行い、簡易検査を実施します。このとき、患者さんは比較的、協力的なケースが多いといえます」
一方、前頭側頭型認知症の場合、本人に病気の自覚はなく、物忘れなどの認知症に典型的な症状もない。そのため、認知症を疑って来院することはまれ。たとえ受診しても、キレやすく会話も成り立たないため、問診や検査に協力してもらうことも難しい。
「別の症状を主訴に受診した患者さんの中で、前頭側頭型認知症が強く疑われたケースは、いくつか経験があります。2つの事例を紹介しましょう」
【事例1】50代の男性。「尿道が痛い」という理由で来院。診察前に症状や経過を記入してもらう問診票には、〈×××(男性器を示す幼児語)〉という言葉が記入されていた。診察室でもこの言葉を連呼。「では検査をしましょうか」と言っても話がかみ合わず、だんだん怒り出し、「おまえでは話にならん」と捨てゼリフを吐いて、診察室を出ていった。身なりはややだらしなく、敬語を使うことは一切なかった。
【事例2】60代の男性。湿疹で受診。診察室に入ってきたときから大声で自分の言いたいことだけを話し、問診しようとしても言葉を遮り、同じ話をひたすら繰り返す。どうやらいくつかの病院を受診したけど治らないので、次々と病院を替えている様子。最後まで話はかみ合わず、そのうち怒って帰っていった。
「他にも初めからケンカ腰で乱暴な言葉遣いだったり、問診してもとんちんかんな答えが返ってきたり、前頭側頭型認知症が疑われるケースがありましたが、いずれにしても『認知症の可能性がありますから、専門医を受診しませんか』とはとても言えませんでした。
そんなことを言えば、逆鱗(げきりん)に触れるだけですし、そもそも会話が成り立たないケースが多いからです」
では、もし家族が前頭側頭型認知症ではと思ったら、どの診療科を受診すればいい?
「専門は神経内科ですが、一般的な診療所で神経内科を標榜(ひょうぼう)するところは非常に少数。ですから本人にかかりつけ医がある場合は、家族が同伴してそこで相談するといいでしょう。
かかりつけ医がいない場合は、内科系のクリニックにまず足を運びましょう。そうすれば、専門医を紹介してくれるはずです」
家族にできることはある?
「この病気に家族だけで対応するのは無理。どの病気にもいえることですが、早期発見が大切ですから、家族にできるのは、疑わしい言動があれば、医療機関に連れていく。ただそれだけだと思います」
人間性を失うこともある前頭側頭型認知症の人に向き合う家族のストレスは非常に大きい。
「患者に対する治療が必要なのはもちろんですが、家族に対するケアも緊急の課題。そのためにも多くの人にこの病気を知ってほしい、と思っています」
取材・文/中西美紀