見事なブロンズヘアの素敵マダムとして人気のボディマイスター・ソネジュンコさん。実はアップダウンの激しい人生を乗り越えてきた苦労人でもある。「私は変化するのが苦じゃないから」自分らしく年齢を重ねるソネ流の生き方とは―。
ストレスからベッドから起き上がれないように
「治療後は毎回、満身創痍の状態。身体も心もボロボロで本当につらい治療でした」
と、現在は回復し、元気な笑顔で語るソネジュンコさん(72歳)。61歳で子宮頸がんが見つかり、ステージ3Cの末期寸前だったという。フィットネススタジオ「スタジオ ソネ」(大阪府大阪市)を主宰し、自ら講師として現在も活躍する。生きがいを持ち、誰もが憧れるシニア生活のように見えるが、発病前の人生は試練の連続だった。
もともと裕福な家庭で育ったお嬢様で父親は不動産会社の経営者。お金に困ったことはなく、大学卒業後、同じような家庭の男性と結婚し、何不自由ない生活を送った。
「今から思えば罰当たりな話ですが、お金に困らない生活が当たり前になっていたんですよ」(ソネさん、以下同)
3人の子宝にも恵まれたが、幸せは長く続かなかった。夫との性格の違いがあらわになり、少しずつ夫婦関係が悪化していく。
「私は自分らしさを大切にするタイプで、生活もファッションも変化を好みました。周囲からしたらそれは“浮いて”見えたかもね。一方、夫が求めるのは“普通で上品な奥様”。私には無理だと悩んだ末に離婚を決意しました」
自分を責め、眠れない夜を過ごした時期もあるという。
「当時、これが“人生最大の挫折”と思い込んでいましたが、まだまだ甘ちゃん、“序章”でした」
離婚後、3人の子どもとともに実家に戻り、会社を経営する父親の援助を受け150平米の広々としたマンションで裕福な生活をスタート。ところが49歳のとき、父親の会社が倒産。住んでいたマンションを追い出され、役員報酬として受け取っていた生活費もなくなったという。
「末っ子が高校進学という、お金がかかる時期に貯金が底をつき、そこからは、がむしゃらに働きました」
整体院で働いた経験を糧に独自のストレッチを考案。自身の会社を立ち上げたあとも寝る間を惜しんで働き、ぐんぐん事業を拡大。新大阪の駅前に大きなスタジオを構える。
「しかし、従業員を多数抱えるストレスからか、活動的な私がベッドから起き上がれないほどの疲労を感じるようになりました」
これは年齢のせいではない、とピンときて検査を受けると子宮頸がんと判明。
「治療は想像以上のしんどさ。入院して抗がん剤と放射線治療を行ったのですが、放射線治療の『ラルス治療』は膣の中に放射線を発生させる棒を挿入し照射するのです。これが苦行のようなつらさでした。婦人科で内診といって脚を開く姿勢がありますが、あの姿勢のまま約2時間、痛みに耐えるんです」
ラルス治療を週1回、さらに抗がん剤治療が週に1回加わる。
「今まで元気が取りえだった私でも10kgも体重が落ち、身長158cmで体重40kg以下に……。食事をとるって何? と考えてしまうほど食欲をまったく感じなくなりました」
このままベッドの上で朽ち果てるのでは?と死を覚悟。回復した自分がイメージできない、このままどうなるのだろう、と不安の渦に巻き込まれていった。
担当医は“本当にいいんですか?”と驚く
2か月の入院生活を経て、退院したもののなかなか回復に向かわなかった。
「退院後、すぐに仕事に復帰できるかと思っていましたが、現実は甘くありませんでした。歩けない、とにかく少し歩くと座り込んでいました。外出するときは、休憩場所をチェックしてから家を出るようになりました」
筋力が衰えると人間こうなるのだ、と改めて筋肉の大切さを知ったという。元の生活に戻ったと実感できたのは、退院してから1年半後。
実は、元の生活に戻れたのは奇跡に近かった。治療の選択を誤っていたら今の生活はないとソネさんは強く語る。
「告知を受けたとき、担当医からは手術と放射線治療の2つの選択肢を提案されたんです。手術は子宮だけでなく膀胱など周囲の臓器を取り去り、人工導尿をつける生活になるといわれ、仕事上の問題もあり、悩みました」
ソネさんの持ち前の探究心が湧き出て、医療関係の友人に相談し、治療について深く調べた。
「米国で医師をしている友人に相談したら、そのころから欧米では放射線治療がメインで外科治療はほとんど行わないと聞いたので、放射線治療に決めたんです。当時、日本では手術が主流だったので、担当医は“本当にいいんですか?”と驚いていました」
しかし、この選択が現在の生活を支えている。
「放射線治療と抗がん剤治療で寛解の状態(症状が軽くなる、消える状態)になりました。10年たちますが、再発はなく元気に過ごしています」
元気に活躍できるのは、外科手術を選択しなかったからだという。
「今は72歳なので、もしまたがんになったとしても進行は遅いはずですし、がんが大きくなるころには、私の寿命が尽きているかも(笑)。病に対する不安はありません」
仕事に復帰したあとは、拡大した事業を縮小し、YouTube配信など自分ひとりでできることを始めた。
「私はもともとマイペース。大病を経験したことで、自分のやりたいことをやって楽しむと決めたんですよ」
今は娘がインストラクターとしてスタジオに勤務し、ソネさんをサポートしている。
「私の意思を尊重し、支えてくれる子どもたちにはいつも感謝しています」
「元気が取りえだった私にとって、病気は神様が与えた試練なのだと思います。冷え性のクライアントさんがいても、自分は冷えを感じたことがないので実感が湧きませんでした。でも、闘病中は足先の冷えに悩み、夏でもカイロを使ったり、何度もお風呂に入ったの。『こんなに大変なんだ!』とわかったし、いい勉強をさせてもらいました」
子どもたちが独立していたこともあり、広いマンションから二間の団地に引っ越したソネさん。ひとり暮らしで日々の食事管理を徹底している。
「食事は手作りがメイン。旬の野菜を中心に魚、鶏肉、豚肉でタンパク質をとっています。添加物をとりたくないから外食や中食は控えるように。調理には時間をかけずパッパと作るようにしています。例えば、お湯を入れるだけでみそ汁ができるみそ玉を作ったり、野菜の重ね煮を作り置きして味変で楽しむなど工夫をしています」
生活面では睡眠時間に重点を置いている。
「病気になるまで、自分はショートスリーパーだと思い込んでいたのですが、いろいろ試してみて8時間寝るのがベストだとわかりました。夜10時にはベッドに入り、朝6時に起きます。この生活を続けていると日中の眠気がなくなり、驚くほど元気に動けるようになりました」
また、病気を乗り越えてメンタル面にも変化があった。
「がんを経験してから切実に感じるようになったのが、時間の大切さです。限りある時間を有意義に使いたいから、もう反省しなくなりました(笑)。昔は『ああ言えばよかった』『こうすればよかった』、と考えがちでしたが、過去はどうやっても変えられないからこだわりません」
自分史上最高に楽しく生きている
それでも嫌なことを思い出したり、メンタルが落ちているな、と感じたら鏡の前に立って声を出して笑ってみたり、アクション映画を見て、気持ちを切り替える。
「没頭できるものなら、何でもいいと思っていて。グチばかり言ってもつまらないですし、生きているこの瞬間を精いっぱい楽しまないと!」
YouTube配信では、自ら動画を撮影し編集している。IT機器を使いこなし、情報収集や発信、金融取引にもインターネットを利用している。
「今、自分史上最高に楽しく生きています。しかも、それが毎日上書きされていくんです。この先どんな経験ができるのか考えるとワクワクしますし、毎朝起きるのが楽しくて仕方がないですね」
ある日の食事メニュー
朝食はゆで卵、グラノーラ、豆乳ヨーグルト、酵素ドリンクですべて手作り。グラノーラはオートミールにナッツやドライフルーツを加えて液体のコーヒー少々をかけてオーブンで焼く
「玄関開けて15分でごはん!」がモットー。右下のメインは乱切り野菜と塩鮭をホイルに並べてグリルで10分焼くだけ。五穀米は冷凍保存、ストックしておいた野菜煮で豚汁、ぬか漬けは常備
取材・文/ますみかん
ソネジュンコ ボディマイスター。1952年、大阪府生まれ。近著に『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)。