「上品に載せてね。スキャンダルチックなのは苦手だから。えっ? テーマが介護だから、スキャンダルになりようがない? あっ、そっか」
歯切れよく、ユーモアたっぷりに話すのは、エッセイスト・作家として活躍する阿川佐和子さん(62)。
高齢社会を迎え、2025年には日本の総人口の3割が65歳以上の高齢者になると言われている現在(平成27年・総務省資料)、親の介護問題は他人事ではない。
阿川さんも、父である作家・阿川弘之氏(享年94)の介護を経験し、昨夏、見送った。
「介護のやり方は千差万別で、正解はないと思うんです。私もそうだけど、多くの人が初体験。だから、"えっ、こうなったらどうするの?"って、あちこちにぶつかりながら、対応していく感じでした」
間もなく一周忌を迎えるにあたり、子ども時代から介護の日々まで、父について綴った『強父論』(文藝春秋刊・7月29日発売)を出版した。
そこには、大作家に愛された、ひとり娘の幸福な日々──ではなく、傍若無人な父親に、どれだけ家族が振り回されたかが綴られている。
それでも、"オレ様"な父とのエピソードに、思わず笑ってしまうのは、阿川さんの父への敬愛の情がふんだんに込められているからだろう。
その父も年をとり、晩年は介護が必要となった。
「いずれ来るとは思っていたけど、父が90歳を迎え、自宅で転倒して入院し、誤嚥(ごえん)性肺炎も併発していると知ったとき、"とうとう来たか"と覚悟しましたね。当時、80代半ばだった母も、もの忘れが始まって、耳も遠くなっていたので、2人で暮らすのはもう限界。さあ、親をどうする? 仕事はどうなる? と、あたふた」
当時から『TVタックル』(テレビ朝日系)や『サワコの朝』(TBS系)の司会、『週刊文春』の対談ページなど、いくつものレギュラーを抱えていた。しかも、エッセイや小説など執筆の締め切りもある。そこに親の介護が加われば、パンクするのは目に見えていた。
短期集中型の介護では身がもたない
「父はあの性格ですからね。"俺を老人ホームに入れたら、自殺してやる!"なんて断言してるし、きょうだい(兄と2人の弟)は協力的でも、親としては、息子より、娘のほうがわがままを言いやすいんでしょうね。父の入院先と母が待つ実家を行ったり来たりしながら、介護離職も真剣に考えました。頭の中で、貯金額を計算しながら、仕事を辞めても、しばらくは生活できるぞってね」
それでも、介護離職を踏みとどまったのは、"介護の先輩"である、学生時代の友人たちのアドバイスがあったからだ。
「もうね、この年になると、みんな経験者なの。だから、今後どんな問題が起きるかも教えてくれて。中でも、"アガワ、1年で終わると思っちゃダメだよ"というアドバイスは心に刺さりました。そうか、10年続くかもしれないのね。だとしたら、短期集中型の介護では身がもたない。共倒れにならないためにも、自分の生活を維持しつつの介護が望ましいって」
ありがたいことに、ぎりぎりまで仕事を続けていた父には、そこそこの貯えがある。介護付きの病院を探す手もありそうだ。
きょうだい間でも話はまとまり、父が入院中に、阿川さんたちは、父を受け入れてくれそうな老人病院を探した。
「ウチは本当にラッキーだったんです。たまたま知人の紹介で教えてもらった老人病院に空きがあって、"大丈夫ですよ"と受け入れてくれることになったんです」
やがて、退院の時期を迎えた父に、子どもたちは「安心して暮らすために」と、目星をつけた老人病院を提案した。
すると、父は意外なほど素直に転院を受け入れたという。同じタイミングで、実家にひとり残る母にも、昔なじみのお手伝いさんが通いで来てくれることが決まり、ひとまず老親2人の安全な生活が確保できた。
「父がその病院を気に入ったのは、職員の対応のよさはもちろん、病院食がたいそうおいしく、お酒も飲め、外出もできると自由な環境だったからです。とはいえ、入院が長期化するにつれ、いくらおいしくても病院食に飽きてくるんですね。例えば、熱々で食べられないとか」
そこで思いついたのが、週に1度の母との見舞いのときに、鍋料理を作ること。
「病院の許可をいただき、病室内に電磁調理器を持ち込んで、すき焼きをしたり。"味が濃い"だの"安い肉を食わすな"だの、文句を言いながらも、父はとても喜んでくれました」
こうして、介護生活は軌道に乗った。さりとて、老親2人を抱えた娘である。ストレスがたまらないわけがない。
わがままな会長に仕える"会長秘書"を演じる
「父は結局、3年半、その病院でお世話になったんですが、病室で大腿骨を骨折し、最後の1年は寝たきりになって。ただ、頭はしっかりしているから、寝たきりとはいえ不自由な生活にイライラするんでしょうね。こっちの都合もおかまいなしに用事を言いつけたり、できないと断ると、"じゃ、俺はどうすりゃいいんだ"と不機嫌になる。結局、寝たきりになっても、父と娘の力関係は昔のまま。私のほうは、こんなに一生懸命に尽くしてるのに、報われない! とイライラするわけ」
寝たきりの父もつらいが、介護する側も長期戦で疲れがたまってくる。
いつもなら聞き流せる父の小言も、徐々に受け入れられなくなっていた。
「父のことも、母のことも、やってあげなきゃと思ってる。でも、精神的にも肉体的にも疲れがたまる。更年期も入ってるから、突然、ガーッと涙が流れ出して止まらない、みたいな時期もあったんです」
それでも、あの阿川さんである。知恵とユーモアで折れかけた心を立て直した。
「以前、北杜夫さんの奥様から、ご主人を看病するとき、看護師長になり切って乗り越えた、と聞いた話を思い出し、よし、だったら私は、わがままな会長に仕える"会長秘書"を演じよう、と。そうすると、父、もとい会長が、"おい、玉ねぎが固い!"なんて文句を言っても、"あら、固うございましたか、それは失礼いたしました"なんてかわせる。父だと思うと腹が立つけど、他人だと思えば割り切れちゃう。そんな工夫もしましたね」
会長秘書作戦だけでなく心の持ち方も意識的に変えた。"うしろめたさ"を持とうと。
「例えばね、やっととれた休日に、大好きなゴルフに行きたい。でも、母の様子を見に行かなくてはならないとします。そんなとき、"夕方まで仕事なの"と母に伝え、ゴルフに行っちゃう。それで、スカッと楽しんで母の家に戻ると母から"仕事、大変ねえ"と気遣われ、"うん、疲れちゃった"なんて答えながら、ものすごくうしろめたいわけ。でも、うしろめたさがあると、母に優しくできる。これ、浮気した夫が、妻に優しくするのと同じ心理」
父が真っ先に口にした母への気遣い
きょうだい(弟2人は海外赴任中)とは密にメールでやりとりし、経過報告と業務連絡を欠かさず。ご近所や親戚で、手を貸すと申し出てくれる人は、すぐさま"お頼みリスト"に記入。いざというときに頼める人材を確保して、心のお守りにした。
ひとりで抱え込まない。ガス抜きをする。おもしろがる─。そうやって、自分を見失わないことで、"いつもの娘"として、老親と向き合えた。
そんな日々の中、父の新たな一面も発見できたという。
「個室に本棚を持ち込み、父は文庫本を読んで過ごしていたんですが、私と母が見舞いに行くと、"おお、来たか"と顔をほころばせてね。真っ先に口にするのが、"お前は大丈夫か"という母への気遣いなの。帰り際、母の手を握って離さないこともありました。癇癪(かんしゃく)持ちで、気難しい父だから、母も苦労したけど、父は母のことがこんなにも好きだったのかと驚きました」
亡くなる前日も、いつものように差し入れを持参すると、薄く切ったローストビーフ3枚をぺろりと平らげ、阿川さんが作った、とうもろこしの天ぷらを、"まずい!"とティッシュに吐き出したと笑う。
「だから、父の最期の言葉は、"まずい!"。父らしいでしょ」
美術館で偶然出会った、心がラクになる死生観
翌日、2015年8月3日、病院から連絡があり、仕事を終えて駆けつけると、父はすでに息を引き取っていた。手を握るとまだ温かく、最期を看取った兄によると、「眠るように逝った」という。
医師には、「死因は老衰。立派な大往生です」と褒められた。その言葉に、しっかり生き抜いた父を誇らしく思う一方、心残りもあったという。
「ひざの手術で入院中の母を、最期に会わせられなかったこと。それに、父を家に帰らせてやれなかったことも。寝たきりになってからも、父は文句も言わず、まじめにリハビリに取り組んでいたそうです。いつか家に戻るという希望を捨てていなかったからかもしれない。叶えてあげたかった。でも、現実的には難しかったですね」
父が亡くなったあとで、何人かの友人に、「父親の死って、あとからじわじわ来るものよ」と脅されたが、1年が過ぎた今も、「まったく来ない」と微笑む。
そこには、阿川さんの死生観も関係しているようだ。
「以前、ある美術館で南米の文明に触れたとき、"これ、気に入った!"と思える死生観に出会えたのね」
それは、生きている世界と、死んだあとの世界は、1本の境界線をはさんで続いているというもの。
「境界線を越えるとき、ちょっと痛いんだって。でも、"イテッ"って一瞬、我慢して先の世界に入ると、"あら、ここにいたの"と亡き人と再会できる。真実は確かめようがないけど、大切な人を亡くしても、また会えると考えられれば心がラクになるでしょ。
だけど、父とあっちで会うのは面倒くさそうだなあ。"あれ持って来たか!""なんだと、忘れたのか!"って叱られそうだし。"強父論、読んだぞ! ロクな本じゃなかった"とかね(笑)」