卒業後はマスコミへ。読売新聞社の記者になった。
「岡山、神戸の支局時代は服装も自由でしたが、大阪本社の経済部では財界幹部にも会うため背広にネクタイ。長い髪も切るように上司に言われました」
うすうす秘密を察している同僚もいたが、クビになることを恐れ告白できなかった。あるとき、労働組合の旅行で西国巡礼の一番・青岸渡寺(和歌山県)を訪ねてから「お遍路さん」にはまる。
「宗教心もなく納経帳に判を押してもらうスタンプラリー。ドライブが好きで四国八十八箇所巡りも重ねました」
やがて観光客を案内する「先達」ができるようになった。
阪神・淡路大震災が転機に
1995年1月17日早朝、寝屋川市の実家で激震に飛び起きた。阪神・淡路大震災。自宅は神戸市東灘区に借りた古いアパート。ニュースの仕事で会社に泊まり込み状態になり、何日も帰宅できなかった。電気が復旧するというので火事を心配して駆けつけたら、自宅はぺしゃんこだった。
「あんた、どこにもおらんから行方不明者になっとったよ」と近所の女性が泣いてくれた。東灘区役所に慌てて取り消しにいき「柴谷は生きてます」と札を立てた。3か月後に再訪すると瓦礫からボロボロの納経帳が。
「全身に電気が走る衝撃でした。横では阪神高速道路が倒れ、地域でも大勢が死んだ。自宅にいたら間違いなく死んでいた。納経帳が身代わりになってお大師様が守ってくれたんや、と思ったのです」
そのときから「自分に正直に生きたい」の思いが強まる。お遍路仲間のすすめで高野山大学の社会人コースに通うが記者生活との両立は難しく、51歳のときに退社した。「四度加行」という厳しい修行にも耐え'05年に僧籍を取った。