戦後、美術教師として教壇に立ち、多くの子どもたちに体験談を話したが、伝わらないものを感じていた。視覚的に伝えようと、大久野島へスケッチに向かった。その船の中で昭和天皇の「崩御」を知った。島に着くと、建物がなくなり、きれいに整備されている現状を見た。
「これでは(毒ガスを作っていた)大久野島が消えてしまう。残さないといけない。残すべきだと思いました」
加害の事実を消さないで
毒ガス作りに従事し、また、被爆もした岡田さんは被害者だが、加害者の面を自覚したエピソードがある。
岡田さんたちが製造に関わった風船爆弾の被害をアメリカの研究者から知らされた。爆弾の放球基地は千葉県一宮町、茨城県大津町、福島県いわき市勿来の3か所だ。偏西風を利用し、アメリカまで飛ばすという偶然に頼った作戦だった。9300個が飛ばされ、うち285個を米国内で回収、2か所で被害が出た。
「1つは電線に引っかかり、送電がストップしました。そのため、日本へ投下されることになる原爆の製造が3日遅れたそうです。もう1つは、子どもたち5人と付き添いの女性が亡くなりました。女性は妊婦でした」
風船爆弾は、全国24か所の女学校の学徒が動員されることで作られたという。
「関わった当時の学徒は“あれだけの仕事でたった6人か”と嘆きました。しかし、亡くなったのが10代の少年少女だと知り、自責の念にかられたのです」
体験談を語り、資料を調べ、絵本づくりも行っている岡田さんは、加害の事実が消されている現実を嘆く。
「加害事実が消されているのは、まず当事者が沈黙したから。東京裁判では毒ガス戦については裁かれませんでした。80棟あった工場をほとんど焼き払われ、残すべき戦争遺跡はなくなりました」
被爆地・広島は戦前、軍都として栄えた町でもある。
「被害と加害の両面を併せ持つのが戦争。加害者は戦争の実態を直視し、体験した生き証人です。過ちを正当化しようとする動きを正すことができます。加害者の証言は、被害者と同様に反戦の大きな力になるはずです」
事実を見つめ、証言を語り伝えていくことが、戦争を考えることにつながる。
(取材・文/渋井哲也)
〈PROFILE〉
しぶい・てつや ◎ジャーナリスト。栃木県生まれ。長野日報を経てフリー。東日本大震災をはじめ、自殺、いじめ問題など幅広く取材。近著に『命を救えなかった─釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)
〈INFORMATION〉
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