富山に焼夷弾の雨が降り注いだ
1945年8月2日未明。空襲警報が解除され人々が寝静まったころ、富山市の空一面が真っ赤に染まり、焼夷弾の雨が降り注いだ。寝間着のまま裸足で外へ飛び出したが、母は子どもたちを乳母車に乗せると、逃げまどう周囲の人々とは反対方向へ、ひたすら逃げた。
「向こうから布団をかぶって逃げてくる人が、流れ弾が当たったのか、目の前で田んぼのほうへ飛ばされるんです。周りで人がバタバタと倒れていきました」
乳母車を捨て、這いつくばって炎を避け、焼け落ちた電線をよけてさらに逃げる。地面は焼けるように熱く、ドブの水で冷やそうとしたら、そこも熱湯だった。
そうして逃げ延びた母子の前に、白い割烹着姿のおばさんたちが現れた。
「あんね、ちゃちゃかと来られ(娘さん、早くいらっしゃい)」
そう言って差し出された銀シャリのおにぎり、おばさんたちの言葉が忘れられない。この日、50万発の焼夷弾が落とされた富山大空襲によって約3000人が犠牲になった。
終戦を迎えても苦しみは終わらなかった。寝たきりになった母の看病、飢えと食糧難、転居先でのいじめ。癒えない傷、孤独を抱える人々も目の当たりにしてきた。
「戦争って、その最中だけが悲惨なわけじゃない。戦後には戦後の生き地獄がある。それでも世界中で戦火が絶えたことはありません。戦争を起こさないための知恵が必要です。若い人たちには戦争がどういうものか理解できなくても知ってほしい。いまの日本の平和は、次世代を守ろうと頑張ってきた人たちがいたからだということを忘れないでほしいと願っています」
Profile◎「国際魅力学会」会長。魅力学を確立、山野愛子ファミリーの山野路子として活動。離婚後はマダム路子に改名、美容家の枠を超え講演や人材開発など多方面で活躍中。