ギャルママとの出会いで一念発起
再びエンジンをかけたのは、仕事でのある新しい出会いだった。
「25歳以下で第1子を産んだママのサークル『ママサー』が全国にあって、彼女たちは各地で何百人、何千人の若いママたちを束ねていた。つけまつげに金髪、大変な思いをしても肝がすわっていて子どもを心から愛している。私が育児でジタバタしたり、つらい思いを抱えていたのが吹き飛ばされる衝撃がありました」
いわゆる“ギャルママ”と呼ばれる彼女たちと組んで各地でイベントを企画し、企業とコラボレーションして新商品を開発する中で、ふっとこぼれる彼女たちの言葉にも大きな力をもらった。
「楽しくないこととか、無理はしない。だって続かないもん」「ママだからこそできることってあるよね」
そのとおりだと思った。自分に向けて言われているような気がした。再び仕事は波に乗り、結里さんの後、2人の子どもにも恵まれた。
そんな中、日本中を揺るがす突然の出来事があった。2011年3月11日、東日本大震災──。
「私はそのときまで、防災なんて全く頭にありませんでした。でも、このとき全国の若いママたちが、東北のママを心配して支援物資を送り始めたんです。それに引っ張られるように活動を支えました」
10か月にわたる物資支援は段ボールで950箱分に及んだ。「自分、何ができるかって思って」「微力は無力じゃない」そう言って集まったギャルママたちとともに、12月には石巻でママイベントを開催。大型遊具ブースのほか、関東のママたちが運営するメイクやヘアアレンジ、化粧品などの支援物資を自分で楽しく選んでもらえるブースを展開した。当日会場でアンケートを取り、「あの日」のことについてママの体験談を集めた。その言葉は想像を絶するものだった。
「被災したママが“支援されるだけでは心苦しい。この体験を伝えてもらえれば、うちらは反対に支援者になれるね”と言ったんです。この言葉にハッとして、しっかり形にしなければと思いました」
その後、かもんさんは若いママたちを支援する団体を立ち上げ、活動に専念していく。
しかし多忙のあまり、夫との関係がぎくしゃくし始める。
「夫が自営業でお互いに実家も近く、甘えていました。出張もできるだけ日帰りでしたが、3人も子どもがいると1日あければ家の中はぐちゃぐちゃ。ママたちの力になりたい、今こそやらなければと使命感に燃えていたんです」
一方、夫の裕介さんは一定の理解をしつつも、家族として続けていくのは無理かもしれないと追い込まれていた。
「結婚前から仕事人間だということは理解していたし、仕事もできる人だと思って応援していました。でも、それを差し引いても、何かお互いに大事にしているものが違うんじゃないかと思うようになって。僕は、家族を真ん中においてほしかった。子どもが呼んでるのにパソコンから目を離さない妻に呆(あき)れ、離婚届を渡したこともありました」
全く口をきかず、子どもを通してしか話さない時期さえあった。ギリギリのところで家族を続けていた。
そんな最中、2015年にかもんさんのお父さんに食道がんが見つかった。手術は難しくリスクも高い。ショックから妄想、妄言、不穏の症状も出ていた。かもんさんは、なんとか元気になってほしい一心で、言葉をかけ続けた。
「お父さん、どうしちゃったの。しっかりして!」「手術をすれば治るんだから闘おう!」
何時間も説得を続けたこともあったが、お父さんは黙って下を向くだけ。裕介さんは静かにそれを見守り、帰りの車でようやく口を開いた。
「あんなにお義父さんが決められないんだから、手術しなくていいんじゃないかな」
家族は手術をあきらめ、その後、陽子線治療のため、片道2時間の道のりを30日間、裕介さんが毎日、送迎した。
「父はその年に72歳で亡くなりましたが、父の気持ちをいちばんに考えていたのは夫だったと気づきました。私は目の前の壁しか見えず、ただあたふたしていた。そのとき、仕事のことも私を心配して忠告してくれていたんだとハッとして。夫にはきちんと謝り、ありがとうと伝えました。あのとき心から素直になれた。だから今があると思っています」(かもんさん)
夫婦の間にあった大きな塊が少しずつ解けはじめていた。