デビュー後のスター街道も急ピッチだった。1999年春、TBSのキャンペーンソングにセカンドシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』が採用。大ヒットとなり、日本武道館での公演を果たした。同年の『NHK紅白歌合戦』にも初出場。メロディアスでキャッチーな詞が若者を中心に広い共感を呼んだ。
ところが、326さん自身はサードシングル『すべてへ』を発表した直後の1999年10月に電撃脱退する。『19』自体も2002年2月、解散。実は、所属事務所の方針から、2人組で売り出したいために326さんのグループ離脱を宣告され、『19』解散の際には事後報告さえもなかったことなどがのちに明らかになった。
『19』脱退の真相
「簡単に言うと、その時、僕はだまされていたんです。東京に行く時にいろいろ面倒くさいことを手伝ってくれた人が、僕のことをだましていたんです」
『19』で多忙を極めていた頃のことだ。326さんの手元に入らなければいけない金が、まるで入ってこない。「売り出すためには、お金が必要なのだ」と所属事務所から諭されたが、ここまでやってきたのは全部自分のはずだ。当時、なんと月10万円も支給されていなかった。
「福岡時代の5分の1。ただただ節約生活です。高輪のマンションに幽閉され、外出はと言えばコンビニに行くだけ」。他のメンバー2人は事務所が別なので、実情はまるで分らなかったという。
「今の時代だと成立しない浅はかな『大人たち』がいっぱいいた。『19』がデビューして、一番良い時期にそれを辞めちゃった。ダメにしちゃったのも『大人』同士の喧嘩」
デビュー直後に大ヒット、武道館に紅白に大忙し……。326さんが振り返るには「僕がいると取り分が減るというので、僕がまず邪魔になったのでは」。残るメンバー2人は、「大人たち」から何と言われたのかも知らないという。326さんは言う。
「周りの人がなんと言おうと僕はファンの人たちと同じ目線で、きっと2人も僕と同じようにだまされてたんだろうなって、そう今でも信じています」
326さん自身も責任を感じ、ファンの人が悲しむと思うと真実を言えなかった。
「なので僕、『19』という存在自体を守ろうとしたのか分からないけれど、ずっと強がって嘘ついて本音を隠し続けていました。それに自分の本音を言うとみっともないって気持ちもちょっとあった。なによりファンの人をガッカリさせちゃうのが嫌だった。だから、強がって、『自分から抜けました』っていう体(てい)にした。今だったら考えられない感覚ですけどね」
ともあれ、ドタバタの脱退劇を経て、326さんは再び個人活動に戻った。「もとの自分に戻るだけだ」と自らを奮起させ、絵本の描画、本の執筆へ。恩義のあるNHKからの仕事は何があっても断らないと決め、番組の司会を担当した。
メディアの世界でうまく泳ぎ切る印象を、筆者は勝手に抱いていたが、326さん本人は葛藤を抱いていたようだ。それ以上に誤算だったというのが、テレビの活動から離れただけで「消えた」と言われてしまうことだったという。
「本を出しているし、売り上げは前と変わらない。なのに『消えた』と言われるのが、本当にいやだった」
テレビは、ひとたび出ると、出続けない限り、「消えた」「干された」イメージがついてしまう。心外だが、「わざわざ説明して歩くのも格好悪いし」と326さんは笑う。