「鉄腕エリカ」が認められるまで

 2003年に実業団の名門・東レに入ることになったが、直後に呼ばれた全日本では「自分はどうしてこんなに下手なのか」と思い悩む日々を過ごした。

「当時の全日本は“メグカナブーム”の真っただ中。同い年の加奈やメグ(栗原恵=JTマーヴェラス)が主力組でプレーする傍らで、自分はコートにも立たせてもらえず、ボール拾いばかり。自信を失いかけたこともありました。

 そこで声をかけてくれたのが、主将のトモさん(吉原知子=JT監督)。“今はつらい立場かもしれないけど、絵里香は絶対できるから”と背中を押してくれたんです。同じポジションの大先輩の言葉はいちばんの力になった

 最終的に2004年アテネ五輪のメンバーからは落選したが、バレーへの意欲を失うことはなかった。

 北京五輪までの4年間は「練習の虫」となった。

 同ポジションの先輩・吉原さんは全日本を去ったが、後継者としてチームを牽引したのが30代半ばのベテラン選手だった多治見麻子さん(現トヨタ車体監督)。荒木選手はそのストイックな姿勢に大いに刺激を受けた。

「私が北京五輪に行ったときは36歳。絵里香はひと回り下なので、24歳だったと思います。当時から負けず嫌いで、闘争心を前面に出すタイプ。ホントに若さと勢いを感じました」と多治見さんは懐かしそうに振り返る。

 アテネ落選の悔しさをバネに「当たり前のことをきちんとやるしかない」と荒木選手は地道な努力を積み重ねた。ひたむきにバレーに突き進む貪欲さとブレない姿勢は、身近にいた大山さんが複雑な感情を抱くほどだった。

「絵里香は常にチャレンジャー。どんなときも信念を持ってまっすぐに突き進む。自分がケガをしがちだったこともあって、彼女の強さに引け目を感じ、距離を置いてしまう時期もありましたね」

 親友をも驚かせた努力の成果は北京でのベストブロッカー賞受賞につながる。「バレーのセンスも技術もない自分はしっかりやらないと選手として生き残れない」と10代のころから自覚してきた「鉄腕エリカ」が、ようやく世界に認められた瞬間だった。

 悲願の五輪行きを実現したものの、日本が5位とメダルを逃したこともあり、バレーへの意欲は高まる一方だった。

 さらなる飛躍を期して荒木選手は2008年夏、イタリア・ベルガモへの期限付き移籍に踏み切る。オファーを受けて長年の夢だった海外に赴いたが、思うように試合に出られない。練習も1日2時間と短く、自分をうまくコントロールできない。

 言葉も文化も環境もすべてが異なる異国でもがいた1年間は、選手として成長したとはいえなかったが、イタリア人プレーヤーの生きざまや人生観に触れて、自身の生き方を考え直すいいチャンスにはなった。

「結婚・出産を経験した人、大学に行きながらプレーする人、モデルや仕事などバレーボール以外の活動にも力を注ぐ人と、向こうにはいろんな選手がいました。オンとオフをキッチリと切り替えて、充実した生活を送る姿を見て、自分にももっと違った何かがあっていいと思ったのは確かですね