みんな夜は何してるの?
網中「コンサートなどを追っかけているうちに、楽屋での仕事のお手伝いをするようになりました。後援会からお手伝いみたいな形で毎回2人ずつぐらい行ってたんです」
尾松「網中さんは東京、私は関西地区の後援会。大阪・新歌舞伎座や梅田コマ劇場でお手伝いをしていました」
網中「でも、私はひばりさんの威圧感というかオーラを強く感じちゃって……。舞台が終わって楽屋に戻ってくるとき、のれんを(頭が引っかからないように)上げて待っているのも仕事なんですけど、間近すぎて“目のやり場”に困りました」
尾松「あなたはいつも下を向いてたよね(笑)」
網中「だって、半端じゃないオーラなの。どんな人が出てきたって敵わない威厳が身についていた。もしかしたら、ひばりさんはそれだけ孤独だったのかもしれないけど、私には本当にまぶしかった」
河野「私も性格的には緊張感に弱いほうだから、楽屋には入らなかった(笑)。でも、全国どこにでも追っかけて行きました」
尾松「だから、ひばりさんにも覚えられていたよね」
網中「昭和52年だったか北海道の釧路で、ひばりさんと同じホテルになって“みんな夜は何してるの?”って声をかけられたでしょ」
河野「あれは困った(笑)。最初は黙ってたんだけど、何回も聞かれるから“ひばりさんが新宿コマ劇場でやったショーをまねして歌ってます”って言ったら“やって見せて”って言われちゃって」
網中「ひばりさんは素人の芸を大笑いして見るのが大好きなんです(笑)。宴会の余興とかも楽しみにしていました」
河野「恥ずかしいけど覚悟を決めてやろうと思ったら、ほかのお客さんがレストランに入ってきて、ひばりさんは出て行かれました。惜しいことをしたかも(笑)」
冒頭の写真の話に戻ろう。
東京ドームでの伝説の「不死鳥コンサート」の後、ひばりさんは再び病魔に倒れ、平成元年3月、順天堂大学病院に入院。殺風景になりがちな病室を“楽屋にいるような雰囲気にしよう”と飾りつけたのは網中さんたちだ。
網中「ひばりさんが退屈しないようにと、ハワイアン調の花柄の生地を買って衝立に掛けたんです。枕カバーも作って、喜んでもらいました。
誕生日には病室にいたみんなが、写真の和也さんの位置に代わりばんこに立って、一緒に写真を撮ってもらいました。私も1枚だけ持っていて、大切な宝物です」