ひとりの人間として母と対話
18歳になってから、彼は「シューレ大学」を知り、通い始める。ここは1994年に開設されたNPO法人東京シューレによるフリースクールだ。スタッフの助言を受けながら、自分が知りたいこと、表現したいことを学べる。ヤシンさんは美術と文学を中心にディスカッションをするなど、自分のペースで通った。
「居場所としての役割が大きかったですね。家以外でそういう場所があるのは、いま振り返っても大事だと思う」
ただ、そのころは常にピリピリしていた時期でもあった。対人恐怖症であるかのように、「人にどう思われるか」を気にして、外出前は1時間も鏡を見ながら身だしなみを整え、気持ちを落ち着かせたほどだ。
25歳のころ、母がシューレ大学の学費を払うのを渋るようになった。働くしかないかもしれない。彼は危機感を覚え、スタッフと母親と3人で話し合う機会をもった。
「大きな転機になったと思います。私はこれ以上支配されたくないと、初めて母にはっきり言った。そして母の人生で何がつらかったのか、何がうれしかったのか、私のこと以外に興味があることは何か……。お互いにひとりの人間として話すことができたんです。母は若いころ、会社でいじめられていたそうです。そんな話も聞いたことがなかった。何ものとも比べようのない時間でした。母も私も、過去をなかったものとするのはやめて、向き合いながら勇気をもって進んでいこうという気になりました」
もちろん、それで母の性格が一気に変わるわけではない。だがシューレ大学を続けることには納得してもらった。そして、それを機にひとり暮らしを始めたいと母に言った。
「やはり抵抗されました。電気代とか水道代などの一覧表を見せて、どのくらいお金がかかるものなのかをわからせようとする。そして私が無理だと思う頃合いを見計らって、最後は“あなたが決めなさいね”って。母の中にはいつもストーリーができているんです。そこに私の行動をあてはめようとする。赤ちゃんを扱うように私に接する。それが我慢できなかったんですよね」
結局、ヤシンさんはひとり暮らしを決行する。「親から援助を受けてですけどね。すねかじりの穀潰(ごくつぶ)しです」と自嘲的につぶやいた。
だが結果的には、物理的に離れたことは大きかった。母の過干渉を受け止めることは、彼にはもうできなかったのだ。
「家を出たら、まるでコルセットがはずれたような感じでした。母の“心配という名の支配”からやっと逃れることができた。母も伝え方が下手なんですよね。もう少し言葉できちんと伝えるとか妥協点を見いだすとかしてくれれば、話し合えるんですが」
家を出てからは断続的にアルバイトを始める。あまり人と話さなくてすむ倉庫での物流関係の仕事などを選んだ。
「最初は労働することは苦役に服することだと思っていました。ひきこもっていたことへのプレッシャーもついて回るんですよ。だって人と会うと“世間話”というものをしなければいけないでしょう。小学校のころどうだったとか、どんな給食が出たとかの話になると、ついていけない。だけどだんだん、適当に話を合わせることができるようになっていきました。その間、必死で闘っている状態でした」
現在は週に3日、アルバイトで働いている。その合間には本を読んだり、文章を書いたり美術館へ出かけたりと、1日1日が充実している実感があるという。