戦死扱いとなっていたが、シベリアからのハガキが届き、大騒ぎに
戦死扱いとなっていたが、シベリアからのハガキが届き、大騒ぎに
【写真】松本さんの生存を知らせる、シベリアから届いたハガキ

生存を知らせるハガキを枕元に

 資材置き場の裏で姉が好きだったシューベルトのセレナーデを口ずさみ、'44(昭和19)年の夏、銀座で買ってもらったタバコのパイプはいつもポケットに忍ばせていた

 吸い口は黒、本体は茶色い木目調のシンプルなデザイン。“いつ軍隊に行くかわからないから”とプレゼントしてくれたものだが、収容所内で踏まれて壊されてしまった

帰りたくて、ロシア人が嫌になるほど毎日“ダモイ(帰国はいつか)”と聞いていた

 念願の帰国は3年後の'49(昭和24)年7月末。復員船は京都府舞鶴港に到着した。

 滋賀県彦根で下の姉と再会したが、喜ぶまもなく知らされたのは上の姉の死だった。 

 姉は'45(昭和20)年12月8日、届いたばかりの松本さんの生存を知らせるハガキを枕元に病気で亡くなった

まったく信じられませんでした。……きっと帰ってくると約束したのに……

 と声を詰まらせた。

 失意のまま翌日の夜、福島県に戻った。薄暗い駅にいたのは父と弟だけ。その翌日、手続きに訪れた役所職員のそっけない態度も許せなかった。

国の命令で戦場に行き抑留され命からがら帰ってきた。なのに、なぜお偉いさんは私たちに“よく帰ってきた”とねぎらう言葉のひとつもかけてくれなかったのか!

 その悔しさ、憤りは70年たった今も消えることはない。

 松本さんは訴える。

「体験していない世代に戦争の話を伝えきることは不可能かもしれないが、みんな真剣に考えないと平和は実現できない。

 意見が異なっていても、立ち止まり、相手を見ることが大切。そうでないとまた同じことを繰り返すだけだ