本所実践女学校3年のクラスメートとは「また明日ね」と別れたきり、半数近くと再会できなかった。仲のいい友人は空襲で両親を失い、親戚宅に身を寄せることに。
ある日、その友人が錦糸公園に仮埋葬されている両親をお参りするというので「私も行く」とついていった。
「きっと、毎日のようにお参りしていたんでしょう。涙ひとつ見せず、静かに手を合わせていました。彼女は親戚宅での暮らしぶりを話し、“髪の毛をとかすのもトイレでしているのよ”と言うんです。
私は鈍感で“どうして?”と聞き返しましたが、よくよく考えてみると肩身が狭かったに違いない。あとで“ごめんね”と謝りました」
女学生らしい歌を歌いなさい
戦後、よく思い出すのは女学校の勤労動員先の製薬工場のことだ。
軟膏をチューブに詰めては封をする作業を繰り返した。歌を歌いながら作業しても工場長は怒らなかった。
ところが、いつものように勇ましい軍国歌謡を歌っていると、工場長が「そんな歌を歌っちゃいけない。女学生らしい歌を歌いなさい」と口を出してきたという。
「ちっともロマンチックじゃない。でも、日本全体がそういう風潮でした。いま思えば、滝廉太郎の『花』でも歌えばよかった。歌詞に学校のすぐそばを流れる隅田川が出てくるわけですし」
切ない思い出ばかりよみがえるが、やはり焼かれた遺体の残像は浮かんでこない。
昨年6月、87歳で亡くなった夫・星野弘さん(元東京大空襲訴訟原告団長)は生前、雅子さんにこう説いたという。
「死体を見ずにすむはずがない。きっと、迂回するなどお父さんがよほど気を遣って見せないようにしたのだろう」
雅子さんはショックで記憶をなくした可能性も考えた。しかし、今は「お父さんが見せないようにしてくれたんだ」と思うようにしている。