弟子の中には家出や夜逃げをして来た者もいた。
「親御さんが乗り込んできて“共犯者”呼ばわりされたこともある。ただ、この家に来た以上、面倒見るのが私の責任やし、放り出すわけにはいかん。ただし、それ以降は住民票と両親の許可がない限り、弟子入りは許さんかった」
今の時代では考えられないおおらかさ。しかし、それだけ親身になって育てた弟子も、3年たって仕事を覚えると、ほかの窯場から引き抜かれることもしょっちゅう。
「使い捨てされて戻ってくる子もいる。謝ってきた子には弱くてね。また面倒をみた」
弟子との微笑ましいエピソードは尽きない清子だが、精力的に作陶にも打ち込み、国内はもとよりニューヨーク、スペインのグレナダ、そして中国などでも個展が開かれ、清子の名声は世界でも一目置かれる存在となっていく。
そんな清子の作品に真っ先に注目したのが、かの有名な陶芸家、加藤唐九郎である。
「ある日ブラリと寸越窯に見えられると、作品を頬ずりしてご覧になり、何点も買っていただきましたよ」
加藤唐九郎は自身の仕事場のガラスケースに清子の焼いたお皿を飾り、「女性でもこんな凄い物を作る」「負けてられへん」と陶芸家の息子さんにハッパをかけていたという。
そんな母の後ろ姿を見て、やがて息子・賢一も陶芸家の道を志す。
賢一は地元の信楽工業高校窯業科を卒業後も、窯業試験場に3年間通い、釉薬を研究。天目釉に魅せられて中国の天目山の寺から伝承された抹茶茶碗「天目茶碗」の制作に打ち込むようになっていた。
「息子も筋はよかったが、私と同じ『信楽自然釉』をやったら、比べられてしまう。穴窯の仕事は私が死んでから継いでくれと頼んどった」
最後まで闘うと心に決めた
陶芸の世界に入って3年。
賢一は清子と親子展を開くなど陶芸家としての道を歩き始める。
時代はまさにバブル真っただ中。翌年、信楽で「世界陶芸祭」が行われるため、町中が沸き立っていた最中、賢一を病魔が襲う。
1990年、2月。雪が積もった信楽の仕事場で作陶中の賢一が身体をよじって土間に倒れた。医師から告げられた病名は、
─慢性骨髄性白血病。
「異常に白血球が増え死に至る当時は難病だった。このままでは2年半の命と告げられ、私はひっくり返って気絶して。今までどんなことがあっても歯を食いしばって乗り越えてきたけど、こんときがいちばんつらかった」
家に帰ると清子は、仕事場にこもり一心不乱に土を練った。すると涙があふれ出し、声が枯れるほど泣いた。
─なぜ賢一が……!
そう思うと締めつけられるほど胸が苦しい。しかし清子は“最後まで闘う”と心に決めた。