「助かるには、同じ白血球の型(HLA)を持つ健康な提供者(ドナー)から骨髄液を移植してもらうしかない」
同じ白血球の型を持つ確率は兄弟姉妹で4分の1。他人の場合は数百から数万人に1人。気の遠くなる確率だったが、提供者が見つからなければ確実に死が待っていた。娘の久美子は、清子の当時の様子についてこう話す。
「母は病院では気丈に振る舞っていても、家に帰ってくると何をするにも“しっかりせな、しっかりせな”と声に出して自分自身を励ましていました」
同年の夏には賢一の地元の友人たちが中心となって『神山賢一君を救う会』を結成。
「頼むよ、母さん」
さらにチャリティー作陶展の開催など、『救う会』の活動はマスコミから大きな注目を集めるも、まもなく解散せざるをえない状況に追い込まれる。
「今でこそ、国が全額負担で行える血液検査のお金13500円も当時は個人負担。『救う会』がその費用が払えんと解散した後も、私が作品を売ったお金で何とか支払いを続けとった」
その費用はなんと7000万円にものぼる。いくら作品が売れても、清子のもとには全くお金は残らなかった。
翌1991年6月、賢一は再び高熱を出して再入院。悠長にドナーを探している時間はもう残されていなかった。
「白血球の型(HLA)が完全に一致するわけではなかったものの、大阪で食堂をしていた妹・静子が移植を名乗り出てくれてな。これに賭けてみるしかほかに道はなかった」
10月に行われた賢一の移植手術は無事に成功を収めた。
手術を担当した、当時・名古屋赤十字病院の小寺良尚先生(76)は、こう話す。
「清子さんは、息子さんを助けたい一心で白血病についてもよく勉強され、骨髄バンク設立に向け熱心に活動をともにした同志のような存在。清子さんの活動が国を動かすきっかけにもなりました」
その年の12月、清子たちの願いが国を動かし日本初の公的骨髄バンク「骨髄移植推進財団」が設立された。
春には退院できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた矢先、賢一の白血病が再発。ショックを受け、崩れ落ちそうになる身体に鞭打って、清子は立ち上がった。
「お前が入院する前に作っていた壺を母さんの穴窯で焼こう思う」
清子は賢一の手の跡を残したかった。それは天目茶碗とは別に自然釉にも挑戦したいと考えていた賢一の思いでもあった。だからこそ白血病に侵され、衰えた体力を振り絞ってまで大壺をこしらえたのである。
「自分で焼いてみたいけど、おとなしく待っているから。頼むよ、母さん」
─あの大壺を自然釉で焚く。