清子は水指、うずくまる、花入れとともに、賢一の大壺を窯詰めし窯に火を放った。清子には、もし賢一が元気なら、叶えてみたかった夢がある。

「電気も水道も通っていない貧しい国に行ってみると、血のつながりや男や女も関係なくみんな家族みたいに暮らしている。こうした国に行って焼き物を教えたい。世界中どこへ行っても焼き物は焼ける。実際に南米のブラジル、アフリカのケニアへも下見に行っとった。賛同するお医者さんや学校の先生もいてな、みんなで“村おこし”や、ゆうて盛り上がってな」

2011年11月、世界中で焼き物を教えたいという夢を胸に、友人とケニアに視察へ
2011年11月、世界中で焼き物を教えたいという夢を胸に、友人とケニアに視察へ
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 信楽だけでなく世界に「寸越窯」を作る、考えただけで清子の胸は高鳴った。それがまさかこんな結末が待ち受けていたとは。窯の中で燃え盛る炎を見つめる清子には無念でならなかった。

「賢一君は焼き物をしていたせいか年のわりに肝が据わっている。清子さんが、気丈に振る舞う賢一君の前で涙を見せることもありませんでした」(前出・小寺先生)

赤い涙を流した息子

 焼きあがった大壺を賢一に見せた日のことを、清子は今でも忘れられない。信楽特有の緋の色に荒れ狂った黒煙が影を落とし、その上に深く暖かいビードロがまるで踊っているかのように彩りを添える。

「大壺を抱きながら、賢一は目から出血しているせいで赤い涙を流してね。あのときばかりは涙が堪えきれんかった」

 4月に入ると、賢一の容体は急変。高熱と痛みに苦しむ日は、熱に浮かされる賢一に清子は子守唄を歌った。'92年4月21日、激しい吐血。

「死ぬのが怖い」

 と言ってしがみつく賢一に、

「みんな誰でも大地に帰るんや。何も怖いことない。先に行ってなさい。母さん、仕事をすませていくからね」

 31歳を迎えたばかりの賢一は、母の子守唄に送られ静かにこの世を去る。

 それから13年の時を経て、2人の物語が2005年、映画『火火』として蘇った。

「作陶指導は勿論、映画に登場する数百点にも及ぶ作品は、みな私が作ったもの。寸越窯や自宅もすべて撮影に使ってもろうた。ほかのお母ちゃんじゃできないことしてあげたんやから。お母ちゃん立派やろっ」

 と言って清子は相好を崩す。

「発病後、弱っていく賢一に毎晩、子守唄を歌いました。ポンポン身体を叩いたり足をさすったりしながらね。そうすっと、私がそばにいることがちゃんとわかるやろ?」と清子さん 撮影/伊藤和幸
「発病後、弱っていく賢一に毎晩、子守唄を歌いました。ポンポン身体を叩いたり足をさすったりしながらね。そうすっと、私がそばにいることがちゃんとわかるやろ?」と清子さん 撮影/伊藤和幸

 古い家の縁側に腰かけ、夜ひとりで涼を取っていると、今でも大勢で暮らしていた懐かしい日々が甦る。今も清子のことを気遣った弟子たちから季節の物が送られてくる。

─もし賢一が生きていたら

 今ごろ、寸越窯を焚き、寝ずに火の番をしていたかもしれないと思うと、笑みがこぼれた。

「しかし、窯は私が死ぬ前に、潰すしかあるまい」

 賢一を亡くした今も清子の心の奥底では、世界に「寸越窯」を作る夢が熾火のようにくすぶり続けていた。

「今からでも、話があれば飛んで行きたい」

 蛍の舞う庭先から山深い里に昇る月を見上げ、清子はそう強く願った。


取材・文/島右近(しま・うこん)放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓