メディアの報じる“復興”は“復旧”にすぎない

 講演を聞いた東京電力社長の小早川智明さん(56)から、「私たちが福島にできることはなんですか?」と尋ねられ、大和田は「あなたが福島に来ることです」と断言したという。

 以来、小早川さんは、お祭りや植樹祭など地域の催しを訪れては、被災者ひとりひとりに頭を下げて回っている。震災後、東京電力の社長は3回代わっているが、知事や市町村の首長に謝ることはあっても、一般の人々にそのような姿勢を見せる者はいなかった。大和田の送りつづけた被災地の声が、ようやくトップに届いたのである。

 大和田の事務所は、福島大学にほど近い学生向けアパートの一室にある。ここから車で学生を案内する。ナンバープレートの「20-11」には、あの日を忘れないでほしいとの願いが込められている。

「原発の現状を見ることで、廃炉までどのような道をたどればよいかを考えてもらうきっかけになればと思っています。単に原発に反対か賛成かではなく、この先エネルギーをどうしていくのか、日本の将来にきちんと向き合い、考えてほしいのです」

1Fに33回、2Fに10回、計43回、入構している大和田(左)と東電の担当者
1Fに33回、2Fに10回、計43回、入構している大和田(左)と東電の担当者
【写真】家族を亡くした被災者にインタビューする大和田さん

 第一原発へは福島市と浜通りと呼ばれる福島県の沿岸部を結ぶ、国道114号線を走る。この山峡の道は途中、浪江町の帰還困難区域で原発事故以来、通行規制がなされていた。2017年に解除されたが、いまもオートバイや自転車で通ったり、道を歩くのは禁じられ、いたるところで脇道が封鎖される。年間放射線量が50ミリシーベルトを超える場所がまだあるためだ。

「ここは浪江町の津島と呼ばれる地区です。町内では原発からいちばん離れているので安全だろうと、町長はここに町民を避難させました。国も県も情報を出さないのでわからなかったのですが、このあたりの放射線量がもっとも高かったのが後でわかりました。私も取材で来ましたが、車のなかで100マイクロシーベルトを記録したこともありました。町民を被ばくさせたと、亡くなった町長は泣いて謝っていて、かわいそうでしたよ」

 国道の通行量はそれほど多くはないものの、除染土を運んで隊列をなす大型ダンプカーとひっきりなしにすれ違う。除染土を入れたフレコンバッグと呼ばれる黒い袋の山も目につく。家の前には大きなバリケードが置かれ、ひっそり静まり返る。時間の経過を物語るように、生い茂る木立に埋もれた家もある。典型的な被災地の風景を見て、他県からはじめて訪れた大学生は誰もが驚き、復興にはほど遠いとの印象をもつ。

 事実、いまも4万人が避難生活を送る。昨年だけで36人の震災関連死が出て、うち13人自殺しているのが福島の現状だ。

「道路や鉄道が開通したり、学校や病院ができるたび、復興だとメディアは騒ぎますが、それは“復旧”にすぎません。復興とは亡くなった家族の分まで、一生懸命に生きていくことだと私は思います。震災関連死を止めない限り、福島の復興はありえません」