その足跡は苦難に満ちたものだったが、そのことは後述するとして、現在、多くの人がイメージする和太鼓合奏のスタイルは、実は意外に歴史が新しいものらしい。
英哲さんはこう言う。
「僕の演奏スタイルとはまったく別なのですが、よく見かける大勢で打つ太鼓芸は伝統芸能ではありません。実はこれは戦後に生まれたもの。伝統芸の太鼓はひとりひとりがアドリブ芸を見せる郷土芸能で、素朴なものでした。
敗戦後に日本はアメリカ軍に占領されて、伝統が抑圧された期間が7年間ありました。武士道や忠臣蔵のような仇討ちものが上演を禁じられ神道の祭りなども大っぴらにできなかったようです。それがやっと解放された年に、ブギウギを歌う少女歌手だった美空ひばりさんが、民謡調の『リンゴ追分』を歌って大ヒットします。同じ年に大勢で打つ『組太鼓』も生まれます。これは復員してジャズバンドをやっていた方が発想したものです。
くしくも同じ年の出来事ですが、当時の日本人が、いかに日本的な音楽や文化を取り戻したかったか、その表れのように僕には思えます」
アメリカの抑圧からの反動で生まれた太鼓合奏─。「これは僕だけの見方ですが……」と英哲さん。それでも、スタンフォード大学など、海外の大学の授業で日本の太鼓を説明するときにこう話すと、戦争体験のある国の学生ほど、この話に強い関心を示すそうだ。
「もともとの日本の太鼓は、時報や火事などの緊急を知らせる合図ですから、ふだんは打てない。大勢で打つなんて最もタブーだったでしょう。そして僕のような職業太鼓打ちは、昔はありえなかったんです」
では、なぜ前例のない「太鼓独奏者」を始めたのか。そこには長いドラマがあった。
宇崎竜童率いる「竜童組」にも参加
18歳で広島県から上京し、美術家を目指して浪人していた英哲さんは、ひょんなことから佐渡の太鼓集団創立に誘われる。後に「佐渡國鬼太鼓座」と名乗る集団だ。
太鼓は素人だったが、入団2年目に主宰者からアンサンブル・アレンジを命じられ、苦労の末に、7人編成で演奏する『屋台囃子』を編曲。郷土芸能とはかなり異なる、舞台演奏用の曲の誕生だった。
さらに、主宰者は英哲さんを褌姿にして三尺八寸の大太鼓を打つように指示。巨大な太鼓の独奏、という前例のない曲の構成、打法も自身で作った。「正対構え」と命名したこの打法は、今や日本太鼓の典型のように世界中で模倣されている。
これらが集団の看板レパートリーとなり、世界を、そして太鼓に関心を持たなかった当時の日本人をも驚嘆させることになった。舞台で鑑賞される太鼓演奏という、かつてない形式を世界に広めたのだ。
「林英哲」の名前が知られるようになったのは'80年代。'82年に独立し、キーボード奏者や、韓国音楽家などとのジャンルを超えた積極的な活動を開始する。
「共演の際、僕の演奏が尋常ならざる太鼓だったらしくて、『すごいね』とジャズの人などに驚かれた。それで『あ、俺すごいんだ』と初めて思った」と英哲さん。
'84年2月には、ニューヨーク・カーネギーホールでの『日本の交響曲の夕べ』にソリストとして招かれ、岩城宏之指揮のもと、総立ちの喝采を浴びる華やかなデビューも果たした。
また、宇崎竜童率いる「竜童組」にも参加。'85年には単独ソロコンサート『千年の寡黙』と勢いは続く。
「当時、1人で太鼓を打つ人間は誰もいなかったから、珍しさもあったんでしょう」