泳ぎ続けた小学生時代
ガールズケイリン復活の半世紀前。税務署に勤める父・赤坂福治と母・佳美の長女として、美代子は大阪府泉大津市に生まれた。
「父の兄弟のうち2人が陸上競技で国体に行き、父も仕事の傍ら、野球チームの監督を務めるなど、ウチはスポーツ一家。ひとつ上の兄もゴルフで国体に行き個人3位の成績を収めています。小さいころは兄の後を追いかけ、野球にもくっついて行きました」
小さいころ、身体が大きく活発だった美代子は、男勝りで芯が強かったと現在、岐阜で歯科医院を開業する兄・壽彦(58)は話す。
「年子だったのでケンカばかり。駄菓子屋で売っているジュースの入ったガラス棒で頭を殴られ、出血。病院に行って縫ったこともありました」
あふれるエネルギーをもて余していた美代子。堺にある私立賢明学院小学校に入学すると大きな出会いが訪れる。
美代子は今も目を閉じると、海のように広いプールに綿菓子のような入道雲が鮮やかに浮かぶという。
その光景を目にしたのは小学2年のころ。兄と一緒に初めて浜寺水練学校を訪れたときのことだった。
「ハマスイは50メートルプールのほかに25メートルプールがいくつも連なりまるで海のように広い。その中で競泳4種目から古式泳法、さらにシンクロナイズドスイミングといった競技のほかにも、水上安全法、救急法なども教わりました。私は毎夏、40日間休まず朝から夕方まで、昼食を食べる時間も惜しんで泳ぎ続け、そのおかげでびっくりするほど真っ黒になりました」
1906年、堺市浜寺に海水浴場と海泳練習場が開設された際、開校されたのが浜寺水練学校(通称ハマスイ)。ここから“シンクロ界の母”と呼ばれる井村雅代さんはじめ、数々のオリンピック選手が生まれている。
「1時間半、立ち泳ぎをした後、クロールで1500メートルを泳がされる。そんなハードトレーニングも当たり前の毎日。小6のとき、40日間休まずハマスイに通ったおかげで体力がついたのか、秋の運動会で、念願のリレーの選手にも選ばれました。30代に入ってからトライアスロン、50代で競輪にも挑戦しましたが、このときの厳しい練習があったからこそやってこられたんだと思います」
中学受験をしてプール学院中学・高校に進学後も、美代子は先生としてハマスイに残った。
「ハマスイは、中学生になると指導する側にまわり、トレーニングを続けることができるんです。中1の夏休みに、4万円の謝礼をもらったときはうれしかったな」
そのかいあって高1のとき「日本泳法」シニアの部で全国2位にも輝いた。その後、短大まで美代子は夏になると子どもたちと朝から晩までプールで泳ぐ生活を送ってきた。