SNS等で数々の「誹謗中傷」を受けこの世を去った木村花さんの訃報に、悲痛な気持ちを抱いた人は多いはず。しかし、自分も気づかぬうちに誰かを攻撃してしまっている可能性は大いにあります。「誹謗中傷」「批判」「文句」「非難」の使いわけ、正しくできていますか? 現役の新聞記者(ウネリ)と元記者(ウネラ)による夫婦の物書きユニット・ウネリウネラが、その意味や使いどころについて考えました。
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5月23日、女子プロレス選手の木村花さん(当時22歳)が亡くなりました。訃報から2週間が経ったいまも、心が痛んでいます。SNS上では木村さんに対して数々の心無い言葉、「誹謗中傷」がぶつけられていました。この悲劇を繰り返してはいけません。
一方で、このニュースを知り、日ごろツイッターなどで政治や社会への「批判」を行っている筆者自身が、知らぬ間に誰かを傷つけてはいないかと心配になったのも事実です。「誹謗中傷」はダメですが、「批判」は必要。では個人的な「文句」、相手に対する「非難」は? 当たり前のようでいて、これらの使いわけはけっこう難しい。言葉の意味を確かめながら考えていきたいと思います。
誹謗中傷による「傷」は残り続ける
まずは、「誹謗中傷」という言葉について辞書(『広辞苑第七版』)をひきます。
【誹謗】とは「そしること。悪口を言うこと」
【中傷】とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」
根拠のあるなしにかかわらず人を悪く言うことが【誹謗】、根拠なく他人を悪く言うことが【中傷】という違いがあるようです。【中傷】が悪いのは当然ですが、この言葉に依(よ)っていくと“根拠がある悪口は許される”という誤解が生まれる余地があります。根も葉もない言説でも自分が信じこめば、(それを根拠として)相手を攻撃する権利がある、と錯覚する人がいるかもしれません。そもそも、根拠の有無に関係なく誰かを攻撃してはいけない、すなわち【誹謗】も含めてダメなのだと、頭に入れておきたいと思います。
誹謗中傷を受けた側の「傷」は、一時の痛みでは終わらない。そのことの重大さを強く感じています。それは、過去に元記者のウネラも不特定多数の方から誹謗中傷を受け、10年ほど経った今でもダメージを克服できずにいるからです。防ぎようのない周囲からの力によって自分が変容させられ、受ける前と後とで世界が変わってしまったような……その前にいた世界にはもう戻れないような、断絶的な感覚を持っています。この痛みを抱え続けて生きていくのは、とてもつらく困難なことだと思います。決して大げさな言い方ではなく、自身の経験からの実感です。
一方、現在も新聞記者として働くウネリはツイッター上でも情報発信を行っており、政治・社会を批判することもあります。冒頭で書いた通り、木村さんの訃報に接してまず考えたのは「自分自身が誹謗中傷をしていないか」ということです。最近のツイートを自分なりに振り返ってみます。
例えば5月下旬、黒川弘務・東京高検検事長の賭けマージャンの件で法務大臣の森雅子氏が安倍首相に進退伺を出し、慰留されたという報道がありました。ウネリは以下のようなコメント付きのリツイートをしました。
《上司に進退伺を出す人は、たいてい慰留されるのを期待してますよね。本当に責任を痛感してる人はすぱっと辞めるのではないでしょうか》
──牧内昇平・朝日新聞 (@makiuchi_shohei) May 23, 2020