「洋ちゃんに面倒看てもらいたい」
享年は、80歳になる年だったんですかねぇ。僕が、34〜35歳のころでした。寝たきりになりまして。僕は仕事がないと名古屋に帰って。付き添って、身体を拭いてあげたりしてましたね。
家内も、手があけば、子どもたちを連れて、面倒を看てくれました。ただ母は病院で「お父さんは、付き添うとすぐ眠っちゃって。いびきが大きいし。お兄ちゃんは、気がきかないからヤだ」なんていっていて。
最後は、言葉がしゃべれないで、ずっと筆談だったんですけど、「洋ちゃんに面倒看てもらいたい」と。
歯も不自由だったんです。「落花生が、食べたいわぁ」。しょうがないから、すり鉢で、すり潰して、粉状にして食べさせてあげたりしました。
母親が亡くなってから、「洋介、目玉焼きって、どう作ればいいんだ?」って、父親から電話がかかってきたことが。
軍隊教育を受けていますから。「男子たるもの、いつ戦場に行くかわからない。すべてのことをできるようにしておけ」。ですから、アイロンがけに始まり、けっこう厨房にも入ってて。伊勢えび、活魚なんかは豪快に料理する人でしたけど。日常の料理を作ったことがなかったんです。
その時、あぁ、本当に母親が実家からいなくなったんだな、と思いましたね。
母・てるさんの一生を振り返る
自由だったんじゃないですか。子どもがいるにもかかわらず、その方と離婚し、うちの父親と一緒になって。最初は、いちばん下の子が、まだ赤ん坊だったので、その子だけを連れて逃げてきて。ほかの兄弟も家にいるのがイヤだというので、うちの父親を頼って名古屋に来て……。
兄弟からは、「あんたのお父さんは、お母さんを奪った男だ」っていわれたことがありました。小さいころは、意味がわからなくて。
「“あんたのお父さん”って。あんたのお父さんと違うの?」って。
そういう母親の姿が、すごくイヤだなと思う、思春期の時期もありましたけど。今振り返れば、あぁ、あの人は、本当に自由に、好きなように人生を全うしたんだ。幸せだったっていう気がしますね。
(取材・文/鳥巣清典)