2020年、松田聖子がデビュー40周年記念アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を発売。オリジナル作としては1996年の『Vanity Fair』以来、24年ぶりにオリコンのアルバムランキング週間TOP3入りを果たした。本作は『瑠璃色の地球』や『赤いスイートピー』などの名曲をリメイクしつつ、37年ぶりとなる財津和夫とのタッグ曲『風に向かう一輪の花』などの新曲も収録したアルバムで、その現役ぶりを見せつけた。
その聖子とともに'80年代の音楽シーンを大いに盛り上げたのが、中森明菜だ。当時は現代のように、大物アーティスト同士が発売日をずらすといった忖度(そんたく)があまりない中で、聖子はシングルが24作連続でオリコン1位、明菜も’89年までにシングル19作品で1位を獲得。しかも、瞬発的な週間1位にとどまったのではなく、'80年代の年間シングルTOP10を見ると、聖子が5作、明菜は12作もランクインしている。名実ともに「日本を代表するアイドル」だったと言えるだろう。
聖子&明菜、翻弄された'90年代
そのわりに、'90年代においては、聖子と明菜が音楽的に注目されることは少ない。彼女たちを特集する多くのメディアでも、この年代に関しては聖子が『あなたに逢いたくて』('96年)で初のミリオンヒット、明菜はカバー・アルバム『歌姫』('94年)がブームのパイオニアになった、などとひと言添えられる程度だ。
だが、長年のファンの方ならおわかりのように、実際には2人とも'80年代だけではなく、この'90年代を乗り越えたからこそ、'00年代以降も活躍できたのだろう。そこで、聖子と明菜が時代の荒波にもまれながらこの10年間をどのように闘ってきたか、改めて振り返ってみたい。
まず、’90年代は2人とも、スキャンダルやトラブルにもっとも翻弄(ほんろう)された10年間だったと言える。聖子は、語学教師との熱愛やダンサーへのセクハラ疑惑、神田正輝との離婚と翌年の歯科医師との再婚、そしてその2年後に再び離婚と、恋愛スキャンダルが多い。近年の穏やかな笑顔とは程遠く、当時は“魔性の女”といったイメージで頻繁に報道された。
一方、明菜のほうは'89年7月に当時の恋人・近藤真彦の自宅で左手を切った自殺未遂騒動を経て、年末には近藤も同席し異例の謝罪会見(いわゆる“金屏風前会見”)を行った。'90年代に入った後は所属事務所との契約トラブルや間に入った自称ディレクターによる告発本の発売、さらに'99年には所属レコード会社から引退勧告を受けるなど、こちらはビジネスがらみのスキャンダルが音楽活動をも妨げている感じだった。
今となっては、どこまでが事実でどこからが憶測による捏造(ねつぞう)なのか見当がつかない。ただし、上述の自称・明菜のディレクターだったという女性は著書にて、'91年のシングル『二人静』については“出荷”枚数(実売よりも多い)を記し、それを次のシングル『Everlasting Love』の “実売”枚数と比較して、いかにセールスを落としたかをわざと強調して書いていた。これを見る限り、彼女は明菜を思いやったのではなく、単に富や名声にあやかりたかったのだろうと直感した。きっと、聖子にもそういった思惑で近づいた輩(やから)が少なからずいたのだろう。
重要なのは、これらのスキャンダルに対し、2人が音楽で奮闘したということだ。