母は生きるのがすごく下手だった
ところが、病弱だった母親は、小学校のお受験を境に、教育ママへと豹変(ひょうへん)する。
「お受験とは縁がない、長野の山奥で育った母親が、私を有名小学校に入れるために目の色を変えたのは、親戚への意地もあったと思います」
両親が出会った当時、父親には妻子がいて、母親は今でいう奪略婚をした。
「時代が違いますから、父方の親戚の風当たりは相当厳しかったようです。母は負い目を払拭(ふっしょく)するために、私を優秀な学校に入れ、医者にする必要があったんです」
ピアノ、バイオリン、英会話、お稽古事をかけもちさせ、勉強もつききりで教えた。
国立の名門、筑波大学附属小学校に合格してからも、母親の教育熱は、冷めるどころかエスカレートしていった。
「ピアノの練習では、1か所でも間違えるとイスから叩き落とされました。怖いから手が震え、また間違えてはたたかれる。その繰り返し」
勉強においてはさらに過熱し、計算ドリルのノルマは毎日課せられ、母親はストップウオッチを片手に張りついた。
「制限時間内に終わらないと激怒され、教科書やコーヒーカップが飛んできました。石の灰皿が額を直撃して血が出たり、お仕置きと称して、タバコの火を手に近づけられたこともありましたね」
淡々と話すが、これは虐待ではないか。そう水を向けると、おおたわさんは否定した。
「こういう話をすると、虐待とか毒母って言われちゃうんだけど、私はそうは思ってないの。過激な教育ママはごまんといるし。それより伝えたかったのは、母の性格です。怒ると歯止めがきかなくなる極端な性格で、生きるのがすごく下手だった。だから、依存症になってしまった」
そこまで話すと、力なく笑って言葉を足す。
「母親が教育ママってことより、依存症ってことのほうがずっとレアで、そこからの闘いのほうが、何十倍、何百倍もつらかったからね」
始まりは、痛み止めに処方された1本の注射だった。
「母は子ども時代に虫垂炎をこじらせて、大人になってからも、よく腹痛を訴えていました。そのたびに、父が痛み止めの薬や注射を処方していたんだけど、じきに効かなくなって、処方されたのが注射製剤、オピオイド。これが、すごく効いたんです」
以来、腹痛を訴えるたびに同じ注射が打たれ、使用頻度は徐々に増えていった。
「昼夜関係なく、『お腹が痛い』と注射をせびり、打つと、母親の表情は和らぎました。この薬がもたらす恍惚感からきているとは、医師である父ですら気づかなかったんです」