いつも服の肩のところを血で汚していた
毎日のように痛みを訴える母親に、父親は「そんなに打つもんじゃない」とたしなめたが、聞く耳を持たず。
当時、中学生だったおおたわさんにまで「打って」とせがんできたという。
「母親が注射器を持って、娘の部屋に入ってくること自体、異様ですよね。もちろん断りましたが、もう母は歯止めがきかなくなっていたんですね。じきに、診療所から勝手に薬を持ち出しては、自分で打つようになっていました」
元看護師の母親は、注射器の扱いも慣れていたのだろう。
たちまち事態は悪化した。気づけば、使い終わった注射器や薬剤のアンプルが、部屋に散乱するようになっていた。
「身だしなみにも気を遣わなくなり、いつも服の肩のところを血で汚していました。あれだけ教育熱心だったのに、私が高校生になるころには、勉強のこともほとんど言わなくなりましたね」
注射を打ちすぎて皮膚はケロイド状になり、腕に打てなくなると今度は太ももに打つようになった。
家族が何度止めても、隠れて打つ。イタチごっこを繰り返しつつも、母親が使用している薬物が合法の鎮痛剤だったことが救いだった。
ところが後に、おおたわさんは事の深刻さを知ることになる。
東京女子医科大学に入学後、授業の一環で病院実習を体験したときのこと。ナースステーションで、勝手に持ち出せないよう厳重管理されている薬剤の中に、母親の薬を見つけたのだ。
「まさかの思いで実習担当のドクターに聞くと、オピオイドは麻薬によく似た化合物で鎮静効果が高く、そのぶん習慣性も強い。使うと多幸感があるので依存症になる人が、あとを絶たないと。目の前が真っ暗になりました。思えば、それからが本当の闘いの始まりだったんです」
父親が事の重大さを知り、薬を取り上げると、母親は薬物への執着をあらわにした。
「父や私が正論で説得しても、まったく太刀打ちできない。四六時中、母に激怒されたり、泣き落としをされて、父がしぶしぶ薬を出してしまうこともありました」
苦肉の策で、母親を精神科の隔離病棟に入院させたこともあった。しかし、当時は依存症の治療そのものが確立されていない時代。断薬は一時しのぎにすぎず、退院すれば元の木阿弥(もくあみ)だった。
「『薬、やめる』っていう母の言葉を信じては、注射を打つ姿に裏切られる、その繰り返しでしたね。不毛なやりとりに疲れ果て、頭がおかしくなりそうだった」
精神的なストレスは、限界まできていた。
おおたわさんは医学部を卒業後、研修医として働き始めたのを機に、逃げるように家を出た。