37歳で初就職、109店員に
とはいえ、20歳から17年間家にいた職歴なしの37歳の女性が就職先を見つけるのは難しい。途方に暮れる中、救いの手を差しのべてくれたのが青学時代の友人だった。
「私の母が経営している、SHIBUYA109のブティックで働かない?」
これが、主婦業からの転身の第一歩となった。
「10坪しかないヤングカジュアルの店で雇われ店長として働くことになったんです。青学時代から109にはなじみはありましたが、社会人経験が皆無なので最初は戸惑いもありました。
8月1日から出勤しましたが、アルバイト10人態勢でシフトを組んで回している状態。立地のよさで売り上げもそこそこあり、スタッフは忙しくしていましたが、私の目には店が汚くてセンスも今ひとつのように映った。まずはそこから手をつけようと思いました」
藤崎さんが最初に着手したのは試着室のカーテン。華やかな色合いの布を買って自らミシンで縫ったものをかけ替えると、店の雰囲気がパーッと明るくなった。続いて洋服の並べ方を大胆に変えた。キャラクターTシャツなど売れ行きが芳しくないものは減らし、売れ筋商品を前面に押し出し、ディスプレーも今風にアレンジしたという。
バイトに関しても、働きぶりを観察し、新たな人材を雇うなどしてスタッフを入れ替えた。1年後にはオーナーから専務を任され、最終的に'10年までの5年にわたって働くことになったが、この期間で売り上げ倍増を達成。年商2億円という優良ショップへ導くに至ったのだ。
「最初のうちは向島の実家が持っているマンションを倉庫にして、電車で洋服を運んでいました。息子にも手伝わせましたよ。いちばん頑張ってもらったのが1月2日の初売りのとき。ものすごい量の商材を運んでもらい、販売員の女の子たちのお弁当の搬入も頼みました」
と、藤崎さん。一方で剛暉さんは、仕事と家事、療養中の父の世話と奮闘する母に心を打たれたようだ。
「父が病気になってからも家のことはしっかりやって、自分には栄養を考えた弁当も持たせてくれましたね。ただ、さすがに疲れが出て、母が洗濯機を回したまま寝てしまい、朝まで洗濯物が洗濯機の中に入っていたこともありました。そんな状態でも僕に“手伝え”とは言わなかった。“好きなことを頑張りなさい”というのが口癖で、うるさいことは言いませんでした」
家族の頑張りがエネルギーになったのか、夫の繁武さんも徐々に回復。'09年夏の都議選で再起を賭けるべく選挙運動を本格化させていた。ところが同年5月、今度は脳梗塞で倒れる悲劇に見舞われる。
藤崎さんは、その日を涙ながらに述懐した。
「近隣町会の温泉旅行に行っていた夫から“帰ったよ”と電話がありました。でも呂律が回っていなくて、変だなと思い、急いで自宅に戻って病院へ連れて行ったんです。そのまま入院になりましたが、本人は選挙に出るという強い意志を示し、数日後に退院を決めました。
でも、家に帰る直前の栄養指導の場で突然、私にもたれかかってきて、倒れてしまった。身体じゅうにマヒが起き、口も手も足もきかず、左半身が不自由になりました。結局、半年入院して、その後は自宅でリハビリに努めましたが、都議選の夢は断たれてしまいましたね」