聴く音楽は「基本オールマイティ」から「基本洋楽」に
いったい、この名作コピペはどのようにして生まれたのだろう。背景に、仁のファンだからこその“必然”もあったのではないか、と考える。
1998年にジャニーズ事務所に入所、Jr.時代から絶大な人気誇っていた赤西はジャニタレとしてはかなりの“異端児”であった。
2001年の結成時から「売れる」と言われ続けてきたKAT-TUNがようやくデビューをしたのが2006年3月。やっとスタート地点に立てたにも関わらず、その半年後に赤西は“無期限の活動休止”を発表した。語学留学のためにロサンゼルスに渡ったのだが、発表当時は「渡航の時期、留学先、期間も不明」だったというから驚きだ。会見ではこんなコメントを放ったという。
《留学したいというのは、前から……。だいたい、年でいうと、17〜18歳のころから思っていまして。そこで何をするかっていうのは具体的には申し上げられませんが。語学にはもともと興味あるんですけど》(『女性自身』2006年10月31日号)
こんな煮え切らない理由あるだろうか。ファンからすれば「何を言っているんだ」であろう。会見場には100人の女性が集まって大泣き、パトカーが出動したとの報道もある。また、留学を知ったメンバーの亀梨和也は「マジ、ふざけんな! あいつどこまで俺たちの足を引っ張るんだ」と叫んだとの話も……。
周囲を振り切って日本を発ち、半年間留学をしたわけだが、その間もただで済まないのが赤西仁。ほかのメンバーが日本で不慣れなテレビ業界に揉まれている最中、サンタモニカのイタリアンレストランで“金髪美女と4対4の合コン”をしていた(『週刊女性』2006年12月19日号)などパーリーピーポーなニュースを欠かさず届けてくれた。
赤西本人が語っていたところによると、作曲をはじめたのは16~17歳のころだという。2004年、20歳のころに受けたインタビュー取材でどのようなCDを聞くのかと質問され、こう答えている。
《基本的に聴く曲はオールジャンルですけど、今の季節だとクリスマスソングがいいですね。B`zの『いつかのメリークリスマス』、Kinki Kidsの『愛のかたまり』、ワム!の『ラストクリスマス』とかが好きです》(『オリコンスタイル』2004年12月20日号)
しかし、留学から帰ってきたあとのインタビューではまるで別人。口調からして違う。
《Internationalな感じでいければなぁというのは、いつも思っていること。音楽も、基本、クラブ・ミュージックとか洋楽のほうが好きなんで》(『MORE』2008年7月)
要するに、アメリカにかぶれてきたのである。
それは人間誰しもに訪れる変化であり、成長だ。しかし、チームの輪を乱す厄介者と捉えたKAT-TUNのファンもいたに違いない。その後も山下智久、錦戸亮らと“赤西軍団”を形成し、夜遊びに繰り出していたという報道は数知れず(スマホバキバキ事件とか)、熱愛もスッパ抜かれまくり。素行不良の面から離れていったファンも多かっただろう。そしてついには2010年、グループを脱退してソロ活動へ。その理由についても「方向性の違い」と超ざっくりだ。無論、またファンは泣いた。
このように、赤西は自らが起こしてきた“ジャニタレにあるまじき型破りな行動”の数々によって、無意識のうちにファンをふるいに掛けてきたのではないだろうか。「もうついていけない」「ファン辞めます」そんな淘汰のあとに残った強きハートを持った精鋭たちが赤西を支えてきたのだろう。つまり、残ったのは“仁に振り回されるのは慣れてるし”な人たちなのではないか、と。