脚光を浴びることが減った時期に、ジャニー喜多川さんは地道に基礎を固めていた。
「ジャニーズJr.のレッスンは欠かさず続けていました。その中から生まれたのが“たのきんトリオ”。ジャニーさんがTBSのプロデューサーと話をして、田原俊彦、野村義男、近藤真彦の3人が『3年B組金八先生』に出演することになりました。
ユニットとして売り出すことになり、『金八』が終わると3人のレギュラー番組が始まって大人気になります。1980年には田原が『哀愁でいと』で、近藤が『スニーカーぶる~す』でレコードデビューを果たし、その年の新人賞を総ナメにしました」(前出・西条氏)
「ショー」こそジャニーズ
たのきんトリオは球場でコンサートを行って、多くの観客を動員。バックで踊っていたJr.の中から『シブがき隊』や『少年隊』がデビューし、1980年代の“黄金時代”を迎えていく。
「先輩のバックダンサーから始まって、人気が出たらデビューするという方式は、今も続いています。そのすべてをコントロールしていたのがジャニーさん。彼は“最も多くのコンサートをプロデュースした人物”“最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物”“チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物”としてギネス記録に認定されています」(音楽ライター)
“ショーほど素敵な商売はない”というのがジャニー喜多川さんの口癖だった。
「ジャニーさんは社長なのに、事務所に社長室がありませんでした。かわりに劇場には専用の楽屋がありました。現場にほぼ毎日いて、ダメ出しや修正を指示。普通は公演が始まると演出家は劇場に来ないのですが、ジャニーさんは公演が始まってからも台本を書き換えていました」(前出・西条氏)
ジャニー喜多川さんの背中を見て、タレントたちも成長した。かつてはジャニーさんが演出した『SHOCK』シリーズの座長である堂本光一はこう語っている。
《ジャニーさんは「タレントはタレントが育てる」いう考え方です。先輩のバックで踊ることをはじめ、あらゆる点で。ゆえに、その仕事は僕らタレント全員が受け継いでいくんだという意識を改めて持たなければと思っています》(『日経エンタテインメント』2018年11月号)