10年前の3月11日、多くの命が奪われた。石巻市の大川小学校は全校児童104人のうち、74名が津波にのまれ犠牲となった。児童の死は学校のせいなのか。保護者はこの10年さまざまな思いを胸に戦ってきた。学校や市を訴える人たち、思い出したくないという人たち、生き残った児童や教師、彼らが過ごしてきた10年に迫る。(ジャーナリスト・渋井哲也)
2011年3月11日の東日本大震災から10年。児童70人が亡くなり、4人の児童が行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の校舎跡地。市が、校舎跡周辺で震災遺構としての整備を進めている。これまで、校舎保存をめぐっては、地域住民や遺族の中でも、さまざまな声があった。結果、極力手を入れない「存置」と決まった。市では「今春のオープンを目指す」(震災伝承推進室)という。
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14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9の地震が発生した。大川小は震災当日、全校児童108人。うち27人の児童は、保護者が迎えに来て下校をした。
津波が校庭に到達したのは15時37分。74人の児童が死亡、または行方不明となった。10人の教職員も死亡した。一方、校庭にいた児童4人と教職員1人の計5人だけが助かった。
地震発生から津波到達までの51分間、防災無線などで避難を呼びかけていた。スクールバスも待機していた。児童たちは地震や津波に怯えていた。避難を開始した直後、津波にのまれた。
「大川小校舎と“悲劇”を伝えていきたい」
生き残った語り部・只野哲也君(21)の父・只野英昭さん(49)
緊急サポートチームの代表・佐藤秀明さん(64)
当時3年生だった未捺(みな)さんを亡くした只野英昭さん(49)は、強風が吹く校舎跡前で「校舎を保存することになったのはよかったのですが、どのように残すのかは市と話し合い中です」と話す。市と遺族の話し合いが続く。
だが、遺構となる校舎には、大川小の悲劇に触れず、地域の被害を展示する計画案も出されていたという。
「大川小には関係ない話になっている。ありえない」
被災校舎を遺構として保存する動きはほかの地域にもあったが、大川小の場合は、保存の決定が遅れた。校舎撤去を希望する声もあり、一時期は解体の方向になっていた。
しかし、只野さんの長男で、哲也さん(21・当時6年生)が解体に「待った」をかけた。本人はこれまでは取材に応じてきたが、成人式以降は控えているという。
当時、哲也さんをはじめとした、大川小の子どもたちの学習支援とメンタルケアをしていたのはNPOの「緊急サポートチーム」。代表だった佐藤秀明さん(64)は「否定しない」「強制しない」「丁寧に向き合う」「正しい情報を伝える」ということを基本にしていた。