東日本大震災から10年。地震発生直後、『週刊女性』の記者とカメラマンは、すぐに現場へと向かった。
混乱する現場では、いったい何が起きていたのか。「記者が実際に見て、聞いて、肌で感じたこと」。週刊女性2011年4月5日号に掲載され、反響を呼んだ『被災地ルポ』と、編集部に保管されていた大量の写真の中から一部を公開する。
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北上していく取材班
茨城、そして福島、宮城へ
東日本大震災から17時間後の3月12日朝8時。記者とカメラマンは茨城県・大洗町に到着した。地震直後、大洗沖では不気味な渦巻きがボートをのみ込み、町役場は1階部分すべてが海水に浸かってしまうほどの被害を受けたこの地域。
港に降り立つと、鼻をつく汚泥のニオイ。これから行く先々で、同じニオイを嗅ぎ続けることになるのだが…。そこには、数えきれないほどの船とトラックがひっくり返っていた。
まだ大津波警報が発令中にもかかわらず、港には漁師たちが集まっていた。
「水位が上がってきたと思ってからは、あっという間だったよ。家は流されたし、船も流された……。必死に坂を上がって助かったけど、損害は数千万円だし、これからどうすればいいんだか……」(60代の漁師)
大洗町のライフラインは、すべてがストップ。300人が避難生活をしている大洗小学校は、すし詰め状態。ベッドがわりに運動用のマットを敷き、毛布1枚で寒さに耐えながら避難所生活を送っていた。中には、カセットコンロで沸かしたお湯で子どものミルクを必死に作る女性の姿も。食料の配給や復旧がいつになるか情報が入ってこないことも、被災者には精神的にツラいようだった。
大洗町から50キロ離れ、建物損害が多く見られた茨城県・日立市。車の上には瓦や電柱などが倒れて、ガラスも全部割れていた。
お好み焼き店のオーナーは、両隣の家が全壊。そのときの恐怖をこう話す。
「車の中にいたんですが、ずっとハンドルを握りしめていましたよ。そこから降りたら、家が倒れてきて……。あのまま車にいたら危なかった。店のことは、まだ考えられない」
まさに九死に一生だった。
東北自動車道が封鎖されているため、一般道をひた走り、午後2時、“原発エリア”である福島県双葉町に入る。
「避難してください!」
警察車両の呼びかけがあり、自衛隊の大型車両と、避難する乗用車とすれちがい、我々は“進入禁止”区域に突入する。そこは、道路と立体交差する常磐線の線路がグニャリと曲がり、民家は屋根が崩れ落ち、陥没した道路にタイヤを取られて動けなくなったトラックが取り残されていた。
私たちは、そんな大地震と津波の爪痕を横目に国道6号線の北上を続けた。