中野栄小学校に着くと、屋上に100人近く、非常用階段にも人があふれ返っていた。屋上へ上がると、
「こんなところで死にたくない……」
と祈るようにつぶやく女子中学生が。
乳児を抱いて、不安そうにしている20代女性は、
「まだ1か月なんです、なんとかこの子だけでも助けたい。いまは家が無事で、そこで生活しているけど、食料が足りないから母乳が出るか心配です……」
結局、津波が襲ってくることはなく、警報は正午過ぎに解除された。その瞬間、拍手とともに、みんなが抱き合う姿が。
「これから頑張ろうね!」
誰かれとなく、励まし合っていたのが印象的だった。
“仏さん”よりも生存者を…
その後、先の若者3人が向かった仙台港へ。大型ホームセンターや、イベントホールはそのまま残されていたが、それ以外はすべて壊滅。マスクがないと喉が痛くなるほどの塵が舞っていた。何もなくなってしまったこの場所に、運送会社で働く男性が、様子を見に来ていた。
「どうなっているか見に来ました。地震のときは別の場所にいましたが、奥さんが妊娠中で急いで家に帰って逃げました。昨日、警察が来て捜索活動をしていたのですが、動かない車の中に仏さんがいるけど、それはひとまず後回しにしてたみたいで、生存者を捜していましたね」
男性に「今、いちばん欲しいものは何ですか」と尋ねると、「充電したいから電池」と真っ先に答えた。確かに、どこのコンビニでも電池は売り切れ。記者は、東京から電池をいくつか持って来ていたため、わずかながら渡すと「本当に助かります!」、そう感謝をされた。
港付近にあるビルの中で働く40代男性は、
「私は単身赴任で来ているんですが、家に帰ったら、ドアが開かなくて。帰っても1人だから、この会社にいるんです。奥さんに無事だと伝えたかったんですが、なかなかつながらなくて。ようやく話せたときは向こうも“無事でよかったね”って……。ここは港だからすぐ津波が来た。隣のホールでは、ちょうどイベントをやっていて500人ぐらいがこの会社に避難したんです。最初は3階にいましたが、4階に逃げました」
もし、避難が遅れていたら、この港だけで500人以上の犠牲者が出ていたかもしれないと思うと、さすがに鳥肌が立った。また、自転車で港に来ていた30代男性によると、
「僕の友達はブロック塀にしがみついて、下半身まで水に浸かって耐えていたそうです」
津波が引くまで必死に耐えていたのだろう。その恐怖は計り知れない。
仙台市街に戻ると、やはりまたガソリンを求める列が。救急車や消防車などの緊急車両が優先だが、宮城野区に住む男性は、
「こっちも父が透析をしているんだ! 万が一のことがあったらどうするんだ。こっちだって命かかってるんだ!」
と、激高するも、ガソリンスタンドの店員もどうしようもない様子で対応するしかなかった。
電気が通っている自動販売機も、軒並み売り切れに。弁当店が開いていたが、わずかみそ汁1杯のために3時間待ちになっていた。
食料、水、ガソリン、ほかにもないものだらけの被災地。東京も買い占めで日用品がなくなっているが、本当に“今”必要なのはだれなのかを考えるべきだと思う。また、取材を通して、ツラいはずのなのに気丈に振舞っていた被災者の笑顔が本当に印象的だった。あの顔がある限り、絶対に復興できるはずだーー。