生島とラジオをつないだ“キーパーソン”
落ち込む生島の支えになったのは、妻の存在だった。
「母は、父が元気で調子に乗っているときほど文句を言いますが、逆に凹んでいるときになるとけなげに支える人なんです」
勇輝さんは父に寄り添う母の姿に献身を見て取る。
「父が忙しいときは、夫婦ゲンカが多かった。僕と弟が小学生のころ、怒鳴り声で朝起きることもありました。子育てはすべて母任せなのでストレスもたまるだろうし、親父には、自分が一生懸命外で働いているんだから、という昔風のところもありました」
テレビの仕事が激減し、くすぶり始めた人気アナ。そのしゃべりのスキルを再び輝かせたのは、古巣TBSでスタートしたラジオの仕事だった。
「本人は『ラジオと再び出会えて、アナウンサー人生の見直しになった』と言っていましたね。生島ヒロシはラジオで再生したようなものですね」
してやったりの表情でそう振り返る弟の隆さんこそが、生島とラジオをつないだ、縁結びのキーパーソンだった。
「ラジオなら年を取ってもできる。テレビだと長期政権は無理だけどラジオならできる」
隆さんは勝算ありと踏んだ。だが一抹の不安も。朝5時から毎日、というハードワーク。案の定、生島本人の抵抗にあった。
「ラジオをやりたいとは言ったけど、毎朝やりたいとは言ってないぞ」
「いいから騙されたと思ってやってみろ」
そんな応酬も懐かしい。
当時47歳の生島の起用は、TBSラジオにとっても、結果的に大正解の一手になった。局の顔ともいえる看板番組に育ったからだ。
だが当初は、TBSのOBアナ、榎本勝起さんがパーソナリティーを務める長寿番組『榎さんのおはようさん~!』の後を引き受けただけに、逆風も感じていた。
「榎さんの熱心なリスナーには僕のテンポは速すぎると不評で、針のむしろでしたね」
生島が尊敬する大沢悠里フリーアナウンサー(80)にも「俺だって榎さんの後は引き受けないぞ」と同情されたという。1年が2年、2年がやがて5年となり、気がつけば長寿の領域。
「生放送はその日に消え、振り返らない。今も前ばかり見ています」という生島だが、あの日、2011年3月11日直後の放送だけは、今もつらい記憶として残る。