そう語るのは、'89年公開の映画『北京的西瓜(ペキンのすいか)』で主演を務めた大林組のひとり、ベンガルだ。

「酒もよく飲みましたし、ご飯もよく食べました。とにかくエネルギッシュ。当時の大林監督は60代でしたが、1日3時間も寝なかったそうです。どんなに遅くまで飲んでも、現場にはピチッと来ていました。移動中に草むらで大林監督が転んで倒れ込んだときがあったのですが、そのまま起きてこないで寝てしまった。それくらいの睡眠不足で、精神は強かったけど身体はきつかったんでしょうね」

 さらに気遣いの人でもあったと、ベンガルは続ける。

「特に新人に優しかったですね。ずっと褒めっぱなしですよ。スタッフが“この新人役者、大丈夫か?”と思うときでも“このシーンは君のためにあるんだよ”とか、うまいことを言う。人を操る術(すべ)がすごいんですよね」

 '86年のデビュー作『彼のオートバイ、彼女の島』から大林さんにお世話になったという竹内力は、さすがに監督の前では“コワモテ”にはなれなかったと明かす。

「俺はデビュー当時から“しかめっ面”だったから、大林監督には“君はタレ目なんだから、もっとかわいく笑って笑って”と言われて。監督がする表情をモノマネすることで、笑う演技を覚えました。でも、その後はやっぱり“しかめっ面”をする役が多くなったので、笑わなくてよくなっちゃったけど(笑)」

 最初が大林監督だったので、その後は苦労することも。

「大林監督が優しかったから、こんなに楽しい世界なら食っていけると安心していたら、その後は変なヤツが多くてね(笑)。大林監督は撮影も変幻自在。台本からは想像もつかないような画を撮るので、撮影中は何を撮っているのかわからない。仕上がった映像を見て“エーッ!”ってビックリするような編集でした。お別れの会があるなら、思い出話に花を咲かせて、明るく“監督、見てる?”って言いたいね。最近、俺は映画の製作もしているので、監督と一緒に、ぜひ映画づくりをしたかったですね」

戦時中、母親とあわや心中の記憶

 青春映画を大ヒットさせた大林さんだが、遺作となった『海辺の映画館』は戦争をテーマに選んだ。《あの戦争のいかがわしさを直接知った僕たちの世代が、ものを言わんといかんだろう》と、この作品を世に出すのが自分の責務だと語ってもいた。出演した窪塚が言う。

「大林監督のアイデンティティーはずっとそこなんです。戦時中に父親が軍医で出征、お母さんからは畳の上に短刀を出されて、米兵に殺される前に心中するっていう場面に遭遇する世界で育ってきた人だから、ただの“反戦”ではないんですよね

 ベンガルには、こんな思い出がある。

「『北京的西瓜』は中国での撮影が必要でしたが、ロケ直前に天安門事件が発生。中国政府からは“中国は安全だ”とアピールしに来てほしいと言われていましたが、監督は行きませんでした。北京のシーンはたくさんあったので、普通だったら撮影中止ですよ。その結果できたのが、37秒間の飛行機の音だけのシーン。画面は真っ白。監督は“映画としては失敗だ”と言っていましたが、ニューヨークの試写会ではスタンディングオベーションが起きて、監督も感動していました

 監督に伝えたい言葉もあるという。

「お礼とともに“もう1度、一緒に撮りましょうよ”って言いたい。もう1度、監督の“ヨーイ、スタート!”が聞きたい。大林組の俳優たちは、みんな口をそろえて言ってますよ。“もう1度、撮りたかった”って」

 スタッフを家族と見ていた大林さんを、自分にとっての“親”だと窪塚は言い切る。

「僕もかわいがっていただきましたが、常盤貴子さんは完全に“娘”でしたよ。僕も末っ子ぐらいにしていただけたらうれしいです。僕はありがたいことに、監督の晩年10年間、お世話になりましたが、監督にはその前に70年があったわけで、そこも見てみたくなりますね。出会えただけで、この仕事をしていてよかったと思える人でした」

 監督はかつて言った。

《それぞれの違いを理解し合い、許し合えば、ごほうびとしての『愛』がもらえる》

 来る大林さんのお別れの会は、きっと人々の愛にあふれる時間になるだろう。