2018年8月5日に『ジャッキーとたべよう! ふくしまのトマト&桃のフェア』のPRイベントに参加した熊田は「(自身の子ども3人は女の子だけれど)男の子も育ててみたい」「私は頑張りたいんですけど、主人がちょっと……。会社からも、もうやめてくれと(言われている)」と話していました。夫がどうしても男の子が欲しいと言うわけでもない。夫や義母の愚痴を漏らしながらも、なぜ男の子を欲しがるのか。そう考えたときに思い浮かぶのが、“家”という概念なのです。
姑と夫から「嫁である」ことを求められていた
みなさんの周りで「結婚する」ことを「嫁に行く」と言う人はいませんか? ある程度年配の人が使う表現だと思いますが、「結婚する」と「嫁に行く」では意味するところが若干違います。ざっくり言うと「結婚する」というのは二人で新しい世帯を作ることを指し、「嫁に行く」というのは、「男性(夫)の家の一員になる」ことを指します。嫁は家庭という組織の“新参者”ですから、姑に“指導”を受けるのは当たり前ですし、男の子を生めば、「跡取りができた」「役目を果たした」と喜ばれるでしょう。
熊田が明らかにしたエピソードから推察するに、熊田のお義母さんは「息子が結婚した」のではなく「嫁が来た」と感じるタイプなのではないでしょうか? 「妻(夫)の役割」というのは家族によって違いますが、多くの場合、子どもは親のやりようを見て「妻(夫)とはこうあるものだ」というイメージを完成させます。もしお義母さんが家庭で「嫁として」役割を果たして来ていたのだとしたら、熊田の夫も自然と熊田に「(妻ではなく)嫁である」ことを求めてしまうのではないでしょうか?
それでは「嫁である」とはどういうことを指すのでしょうか。嫁姑ドラマの金字塔、橋田壽賀子さん脚本の『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)では、お嫁さんが自分の都合で外出するときに「勝手させていただきます」とあいさつすることがあります。冠婚葬祭だろうとお見舞いだろうと、婚家に直接関係ないことはすべて“勝手”です。
熊田は現在もグラビアの仕事を続けています。現代的な感覚で言えば、「3人も子どもがいるのに仕事をして、すごい。えらい」と受け止められるでしょうが、渡鬼理論で言うのなら、熊田が自分の仕事を頑張るほど「自分勝手な嫁」「好き放題している」とマイナス方向に評価されてしまうのではないでしょうか。これはどちらがいいとか悪いとかではなく、単なる価値観の違いです。
自分は仕事も育児も頑張っているのに、認めてもらえない。こんなとき、誰しも愚痴のひとつも言いたくなるもの。夫や義母に対する愚痴を言うのは、テレビでは需要のあるキャラでしょうからアリでしょう。けれど、インスタグラムのストーリー(24時間で投稿が消える)で言うのはナシだと思うのです。誰もが見られるテレビで愚痴を言うのなら、「あれは仕事です、そういうキャラが求められているんです」と申し開きができるでしょう。しかし、SNSの場合、フォロワー全員が純粋なファンとは限らず、流出しないとも限りません。その場合、夫や義母は「人づてに自分の悪口を聞かされる」わけで、関係性がこじれないわけがない。