師匠を激怒させた付き人時代

 研修生は、舞台にも上がるが最初のうちはもっぱら雑用係である。

 幕を上げたり下げたり、先輩の衣装をたたんだり着せたり、靴を磨いたり、化粧前(役者が化粧をする鏡台)の道具を洗ったり、先輩の役者さんの食事を運んだりと目が回るほどの忙しさだった。

「よう動く、あんな動くやつはいてない」

 程なくして寛平の働きぶりに推薦の声が上がり、吉本新喜劇を代表するスター花紀京さんの付き人に抜擢される。

 あるとき、お使いを頼まれた寛平は、ついでになぜかアメ玉の首飾りを買い、首からぶら下げていた。

「付き人は舞台が暗転したら懐中電灯を持って師匠を袖に連れていくのが大事な役目。暗転直前、ぶら下げた首飾りからアメ玉を師匠に渡して、『よろしくお願いします』と頭を下げたんやね。そしたら、師匠は『……こ、こんな腐ったもん食えるか!』と怒っちゃった。で、実際に暗転になって懐中電灯持って迎えにいって、『こっちですよ、こっち』と懐中電灯を師匠の顔に当てながら言ったら、『眩しいやろ、下や下を照らせ!』って。その様子が客席にバレバレで大爆笑となって、師匠は真っ赤になって怒ってはった」

 結局、失敗の連続により半年でクビ。再び幕引きに逆戻り。舞台にはちょい役で出させてもらう日々が続く。

「『今日も行くの?』とか師匠にため口きいて、よく激怒されてましたわ(笑)」と寛平 撮影/伊藤和幸
「『今日も行くの?』とか師匠にため口きいて、よく激怒されてましたわ(笑)」と寛平 撮影/伊藤和幸
【写真】歌手を夢見て上京、キャバレーのボーイとして働いていた当時の間寛平

 そこに現れたのが、新人の木村進さん。大阪では有名な役者「博多淡海」の息子だった。幼いころから父親の芸に触れ、稽古を重ねてきただけに芸も達者で、吉本での扱いも違っていた。

 1歳年下の木村さんとはウマが合った。お互い酒好きでよく杯を酌み交わし、彼は寛平の芸を褒めてくれた。

「寛平兄さんは面白い。兄さんのボケの味をわからん芸人は失格やと思います。僕を一緒にやらせてください」

 木村さんが会社にもそう進言してくれたらしく、寛平さんと木村さんのコンビで売り出すことになった。

 入団から4年目、24歳にして寛平は木村さんとともに吉本新喜劇の座長へと正式昇格したのであった。

 座長ともなれば、台本の書き換えから演出にまで口を出す。しかし、経験の浅い寛平は、台本を直すことも芝居を直すこともできない。そこで、素直に座員である先輩たちにお願いした。

「わからんものは直せへん。よろしゅうたのんます。自分のできることは目いっぱいやらせてもらいますんで」

 見栄を張ることもなく、素直に甘えてきた年下の座長に、先輩たちは「わかった。任しといてえな」とセリフや芝居を直し、盛り上げてくれたのだ。

「おっさーん、アホかアホかアホか、オッサーン!」

 客席にいる面白い顔をしたおっさんを指してこんなギャグを飛ばすと、子どもたちがキャッキャッと腹を抱えて笑ってくれるようになった。

 このとき、寛平は計算をすることもなく、地でいくギャグで勝負することを決める。

「やっと俺の生きる道を見つけることができた!」と思えた瞬間だった。

芸人デビューした当時。舞台上でいかに目立つか、を考えていた
芸人デビューした当時。舞台上でいかに目立つか、を考えていた

“出待ち”していた女子高生と

 1976年、寛平にある出会いが訪れた。朝日放送の『あっちこっち丁稚』というコントバラエティー番組のレギュラーとなり、リハーサル室にいたときのことだ。部屋の隅に目をやると、見覚えのある女の子がいた。7、8年前、楽屋出口で「出待ち」をして自分を見つめていたあの子だった。

 聞くと、彼女は児童劇団にいて人形劇をやっていたのだが、吉本の関係者にスカウトされ、「ちょっとした役があるから」と言われてやってきたらしい。

「なんでこんな世界に入ってきたんや?」と聞いたら、「もう吉本入ったんです」と言う。

「そこからですわ。劇団は終わるのが遅いでしょ? 夜11時くらいになる。『君、家どこやねん?』と聞くと『兵庫県の宝塚です』『じゃあ、送っていこか?』となって僕の車で彼女の家まで送っていくようになったんですね」

 後に寛平の妻になる光代さんは、まだ17歳。高校を出たばかりだった。その当時、新喜劇の舞台と稽古で大忙しだった寛平は、実家には帰らず、劇場に近いラブホテルを住居にしていた。

「坂田利夫さん(アホの坂田で有名)と、もう1人の先輩とそのホテルに泊まってました。まあ寮みたいな感覚ですね。彼女を送ってからそこに帰るような生活でした」

 朝、寛平が楽屋の自分の化粧前に座ると、光代さんが作ってくれたお弁当が置かれるようになっていた。

 ある夜の仕事帰り。ひとりで車を運転していた寛平は、カーブでハンドルを切り損ねて道路の脇にぶつけ、歩道に乗り上げる事故を起こしてしまう。頭を打ったらしく顔中血だらけだった。救急車で病院へ。そして病院から向かった先は、ときどき泊めてもらうこともあった光代さんの実家だった。それからというもの、寛平は光代さんの家に帰ることが当たり前のようになり、彼女との結婚を考えるようになる。

「付き合いだして2年くらい、彼女が二十歳になったころですね。会社も僕にしっかりしてもらうために結婚させたがっていました。お母さんも反対はしなかったですね。ちょっとずつラブホテルにあった荷物を彼女の実家に運んでいってね。そしたら見かねたお母さんがファンシーケースを買ってくれましたよ」

光代さんと結婚。借金地獄に陥ったときも「妻には甘えっぱなしだった」と寛平
光代さんと結婚。借金地獄に陥ったときも「妻には甘えっぱなしだった」と寛平

 1978年、2人は入籍。天王寺の式場で劇団員全員が集まり2人の門出を祝福した。寛平28歳、光代さん20歳。光代さんは吉本を辞め、芸人・間寛平を支える妻として奔走することになる。