「本当はとてもいい人なんですよ。優しいし、偉ぶるところはないし、気さくだし。頑固さはなくて、人の話もきちんと聞いてくれる人です」
飯塚幸三被告(90)についての印象を話してくれたのは、『NPO法人 World Open Heart』の阿部恭子さん。阿部さんは犯罪加害者家族を対象とした支援組織の理事長を務めており、飯塚被告とその家族をサポートし続けてきた。
一昨年の4月、東京・池袋で松永真菜さん(当時31)と娘の莉子ちゃん(当時3)が死亡したほか、9人の重軽症者を生む交通事故が起きた。飯塚被告が運転する車が暴走して次々と人を轢いたのだ。
9月2日、飯塚被告に対して自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)を問う公判で、東京地裁は禁錮5年の判決を言い渡した。控訴期限の16日が迫る中、被告は期限前日の15日に「控訴しない」意向を阿部さんに伝えたという。
「飯塚被告から私に相談があったわけではなく、“控訴しない”という報告だけを聞きました。おそらく、弁護人と話し合った結果、そうなったのだと思います。判決から十数日間たってからの決断なので、葛藤があったでしょう」(阿部さん、以下同)
もともと被告の家族は控訴することに反対していて、
「“やめてほしい”と訴えていました。被告は控訴して有罪を覆したいという気持ちもあったかもしれませんが、“被害者遺族が嫌がることをしたくない”という思いが勝ったんだと思います。苦渋の決断だったのでしょう」
刑務所に入る覚悟はできている
事故当時、飯塚被告は逮捕されなかったことから、警察が旧通産省工業技術院の元院長という高級官僚だった被告に忖度したのではないかと問題視された。被告自身も世間から“上級国民”と揶揄されて多くの非難を浴びた。
「飯塚被告に非があるわけではないのに……。彼は純粋な技術屋さんで、政治力を行使するような人ではありませんよ。警察が逃亡や証拠隠蔽の恐れがないと判断しただけなんですから」
都内にある被告のマンションに、連日マスコミが殺到するなど報道が過熱。街宣車が大音量で叫び、脅迫状や爆破予告なども届いたという。
「いわれなき誹謗中傷です。被告はそれらに、ひどく怯えていましたね。一度、某テレビ局が駐車場へ来ていて、そこで逃げられない状態になったため、仕方なくインタビューに応じたことがあった。そこで“私みたいなのが運転しても安全な車を作ってほしい”と上から目線ともとれる発言をしてしまったため、批判がさらに集中してしまったんです」
1年近くにおよんだ裁判の中で、常に“私の記憶ではそうだった”と被告は自分の非を認めず何度も意地を張ってきたが、
「あれは頑固なのではなくて、弁護人との打ち合わせで決めていた裁判上の戦略だったのだと思う。しかし、それが心証を悪くしたことは間違いないですね」
被告の裁判を傍聴してきた阿部さんも“負けたのは当然だ”と思っていたという。
「最低でも5、6人の弁護団を作って、自動車のメカニックに詳しい専門家も立てて戦うべきだった。弁護人が検察側の証人を鋭くつく場面も少なかったし、熱が入っていないようにすらも感じました。一審で徹底的に戦うことができずに完璧に負けたわけですから、二審で翻る可能性は少なかったでしょう」
飯塚被告は授与された勲章のはく奪を恐れて、罪を受け入れず控訴し続けるのではないかという報道もあったが、
「そんなことにこだわっている人ではないですよ。被告は刑務所に入る覚悟がすでにできています。“刑務所ってどんなところ?”と私に尋ねてくるぐらいですから。
ただ被告は90歳という高齢であることに加えて、指定難病である大脳皮質基底核変性症も患っているので、収監されるかどうかは何とも言えませんが」
控訴をあきらめ、罪を償うことを決断した飯塚被告の胸の内は――。