意地でも生きてやる
病院に連れていかれ、弟が「坊やも行く」と一緒についてきた結果、あろうことか弟に疫痢がうつってしまった。
「喪服を用意した」と父が日記に記していたほどで、私たち姉弟は死のふちをさまよっていたらしい。父親は労働運動をしていたくらいだから、神様なんか信じないはずなのに、父の日記によると、このときばかりは神頼みをしたという。ところが、この神頼みがひどいのなんのって。
「男の子はわれわれに授かった宝物ですから、この子だけは助けてください。連れていくならこの子にしてください」と、私を捧げようとしたというから、ひどすぎると思わない?
私に意識はなかっただろうけど、「意地でも生きてやる」と三途の川の手前で思ったのかもしれない。私は生還し、弟も無事に寛解した。
三島で暮らす祖父が急逝し、ひとり娘だった母と私たち家族は三島へ引き揚げることになった。健在であれば、私は滝野川小学校に入る予定だった─でも、人の歴史というのはわからない。
私たちが三島に引っ越した翌年、昭和20年、東京は大空襲に見舞われた。滝野川の近くは、軍関連施設が偏在していたため甚大な被害を受けたことでも知られている。もし、あのまま滝野川で暮らしていたら、今の私はいなかったかもしれない。
女優になって、随分たってからだったと思う。あるとき、姉とともに懐かしきあの土地に行ってみようという話になった。タクシーに乗り、「今もまだ渋沢さんのお屋敷はありますか?」と運転手に尋ねると、まだあるという。
気持ちが浮き立ち、かつての滝野川町一番地を訪れると、私たちが生活していた木造の家はなくなっていたけれど、あの長い石の塀は健在だった。
驚いた。子どもの時分は、あんなに長く、永遠に続いていると思っていた石の塀が、目を疑うほど短かった。「なんだこのくらいかぁ」。
子どもの目には果てしなく続いているように見えたものも、大人になるとまったく違って見える。子どものころの体験は、尊いものだとつくづく思う。
〈構成/我妻弘崇〉