女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、昭和の名優たちの話。

プライベートもアクションさながらに破天荒

 先日亡くなった千葉真一さんは、“明朗な破滅型”という言葉が似合う人だった。

 妻だった野際陽子さんは、千葉さんと結婚する前、文京区にある「川口アパートメント」に暮らしていた。

「川口アパートメント」は、1964年に竣工(しゅんこう)された、当時の最新技術を採用して建築したモダンな高級集合住宅。直木賞受賞作家・川口松太郎さんの自宅建て替えを兼ねて建てられたアパートメントでもある。

 そんな最先端の集合住宅に、樋(とい)を伝って野際さんの部屋に侵入する男がいたらしい。目撃者は、同じく当時、「川口アパートメント」に居を構えていた加賀まりこさん。  何を隠そうその男こそ千葉真一さんだった─というから、噴き出してしまう。さすがはスタントマンを使わずに自分でアクションをしてしまう人である。私生活でもキイハンターだったとは……恐れ入ります。

 また、千葉さんと野際さんの一家は、毎年、中原早苗さんの一家とともにスキーに行っていたんだけど、あるとき野際さんが宿泊先のホテルのある部屋のドアを何げなく開けると、なんと千葉さんと婚外恋愛の相手が─というのでびっくり。プライベートも、アクションさながらに破天荒。底抜けに明るい人だけど、破天荒は破滅と隣り合わせ。野際さんは、本当に大変だったと思う。

冨士眞奈美
冨士眞奈美

 昔の俳優さんは、豪傑な人が多かった。梅宮辰ちゃんや山城新伍ちゃん。千葉さん同様、松方弘樹さんも、もっと生きていてほしかったひとりだったな。華やかなりし昭和の東映を回想したとき、今でもお元気なのは北大路欣也さんだけになってしまった。松方さんのお父さまは、殺陣(たて)の達人・近衛十四郎さん。北大路さんのお父さまは旗本退屈男・市川右太衛門さん。昔、和子っぺ(吉行和子)が「二世の俳優はさすがに違う」と言っていた。クローズアップになったときオーラがあるのと、雰囲気がまったく違うと。

 二世といえば、三國連太郎さんのご子息である佐藤浩市さんが赤ちゃんだったとき、私は彼を抱っこしたことがある。尾崎士郎の「ホーデン侍従」を映画化した『欲』という映画で三國さんとご一緒した際、うれしそうに「子どもが生まれた」と話されていた。

 あまりにうれしかったんだろうな。私にも「見に来て」と声をかけてくださって、社交辞令みたいなもの。ところが、同席していたペコ(大山のぶ代)ったら、人懐っこいものだから「見に行こう」とノリノリになってしまった。

 ペコの勢いに押されて三國さんのお宅へ行くと、「ホントに来たの!?」と半ばあきれぎみに驚いていらした。お祝い品も持たず赤ちゃん見物……なんてばつの悪さを感じつつ、抱っこさせてもらった新生児のまばゆさといったら。その、玉のような男の赤ちゃんが、今では渋くて素敵な役者さん。時の流れをいや応なしに感じてしまう。

 昭和の名優といえば、高倉健さんを忘れるわけにはいかない。かつて私は、多岐にわたるジャンルの方々にインタビュー(対談)する胸躍る仕事をしていた。長嶋茂雄さん、北の湖さん、開高健さん、吉行淳之介さん─。

 ある号で、脚本家の倉本聰さんにお話を伺う機会を得た。お話の中で、倉本さんが脚本を書かれた名作に数多く出演されていた高倉健さんに対談をお願いできないかと尋ねたところ、「やめたほうがいい」と。どうしてと聞くと、

「絶対に本当のことは言わない。高倉健であり続けるから面白い話を聞けません。がっかりすると思いますよ」と。

 たとえば長嶋茂雄さんだったら、“クリーニング店の前を通って「この服いいな」と買いそうになった”なんてエピソードがたくさん転がっている。でも、同じスターでも高倉健さんは、そういった話が転がっていない。スクリーンの高倉健のまま。孤高のスターを堅固に守る。それがファンに対する作法。

 思えば、昔の俳優さんは、唯一無二な人が多かった。

 冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

〈構成/我妻弘崇〉