妻の癇癪に耐えられず家を出た夫
亮一さんが家を出たのには理由がありました。彼いわく、件の妻は癇癪持ち。長年、激しい気性に悩まれてきましたが、特にひどくなったのは亮一さんが42年間、勤めた会社を定年退職してから。夫婦が同じ空気を吸う時間が長くなった影響で妻はますます神経質に。例えば、亮一さんの財布やスマホ、クレジットカードの明細までチェックするように。少しでも無駄使いを発見すると大変です。「馬鹿!」「ボケ!」「死ね!」と暴言を浴びせてくるのです。そのため、次第に亮一さんは昼間外出し、妻を避けるような行動を取り始めたのです。
亮一さんが家に戻るのはシャワーを浴びるときだけ。寝室に入らず、リビングのソファーで寝る日々を続けていたところ、妻に見つかってしまい……。亮一さんが「ちゃんと家で休めるようにしてほしい」と頼むと、妻は「いつになったら出て行くんだ。早く死んでくれ!」と一蹴。亮一さんは完全に居場所を失い、自宅を追われ、行方をくらますしかなかったそうです。
最初はひっきりなしに届いた妻や長女からの罵詈雑言も次第に減っていき、途中で完全に途絶えたのです。そして失踪から1年後。美穂さんと知り合い、お互いに惹かれ合い、夫婦同然の生活を送るように。二人は中途半端な関係だったものの、「日々の生活に特段、不自由していなかったので……」と亮一さんは弁明しますが、本妻との離婚はついつい後回しに。そしてきちんと「けじめ」をつけず、なぁなぁのまま、今に至ったそう。
つまり、戸籍上の配偶者は今だに本妻。そして美穂さんは内縁の妻という位置づけなのですが、問題は相続権。今にも亮一さんの寿命が尽き、相続が発生しそうな状況ですが、法律上、「何もしなければ」内縁の妻に法定相続権(法律で定められた相続権)はありません。このままでは亮一さんの遺産は闘病中、何もしていない本妻と長女が総取り。献身的に看病した美穂さんには何も残らないのはあまりにも不平等な結果です。
彼女に遺産を残すための遺言作成
確かに二人の間柄は不倫、美穂さんの存在は不倫相手ですが、亮一さんにとって10年間、その存在を忘れていた戸籍上の妻と、10年間、連れ添った内縁の妻とどちらが大事でしょうか? 亮一さんは「美穂さんです」と断言します。亮一さんは残された美穂さんがお金に困らないよう、遺産を残すことを望んでいました。
もちろん、亮一さんが本妻と離婚し、美穂さんと再婚することができれば、それが理想的な展開です。法定相続人は美穂さんと長女だけ。本妻に遺産を渡さずにすみます。本妻が美穂さんに「何様なの!」と文句を言う権利はありません。とはいえ亮一さんは余命わずかの状態。10年ぶりに本妻と連絡をとり、今さら「正式に別れてほしい」と頼み、亮一さんが亡くなるまでの間に離婚届に署名をもらう。それは全く現実的ではありませんでした。
そこで筆者は「離婚せずに彼女に遺産を残すのなら遺言を作りましょう」と提案しました。なぜなら、遺言のなかで美穂さんに遺産を渡すと書けば、美穂さんにも相続する権利が発生するからです。
ところで遺言は公正証書遺言と自筆証書遺言の2つに分かれます。前者の場合、公正役場で公証人立ち会いのもと本人が署名捺印するのですが、いざ本人が亡くなり、遺言を発見し、相続を開始する前に、遺言の発見者が勝手に中身を書き換える可能性があります。そのため、遺言の原本は本人だけでなく、公正役場でも保管しておきます。もし、発見した遺言と公正役場の遺言に相違があった場合、改変の事実が明るみに出るので安心です。後者の自筆証書遺言の場合、遺言を無断で改変していないかなどを相続の手続を始める前に、裁判所で確認しなければなりません(=検認)。
今回の場合、自筆で遺言を残すのは極めて危険です。本妻は「夫が出て行ったのは女(美穂さん)が裏で糸を引いているはず。夫はあの若い女に騙されたに違いない。金欲しさで近づき、媚を売り、遺言を書くように仕向けた守銭奴」と思うに違いありません。美穂さんという存在のせいで遺産の分け前が減るのですから、筆者は「本妻や長女が美穂さんを逆恨みするでしょう」と指摘しました。
美穂さんが亮一さんと出会ったのは別居後ですが、「寝取ったわけではない」と弁明しても、怒り狂った本妻は聞く耳を持たないでしょう。自筆証書遺言の場合、もし本妻が検認前に遺言を奪い取り、焼き払い、灰と化した場合、遺言を「なかったこと」にすることも可能といえば可能です。
現時点で本妻や長女が何をどこまで勘づいているのかはわかりませんが、少なくとも美穂さんのことは「悪女」に映るでしょうから、本妻や長女が何を仕出かしてもおかしくはありません。亮一さんは美穂さんのことを本妻、長女から守らなければなりません。このことを踏まえた上で亮一さんは遺言の形式として「公正証書」を選びました。