寿命が尽きる中で感じた“罪悪感”
次に具体的な内容です。亮一さんが家出せざるをえなくなったのは妻の責任も大きいでしょう。妻がまともなら悠々自適な老後生活が待っていたはずと考えると、遺産は美穂さん10割でもよさそうですが、亮一さんは言葉を濁します。美穂さんと暮らし始めて10年ですが、一方で結婚から別居まで25年。遺産の一部は妻のおかげで築いた財産も含まれています。
そして亮一さんは別居から11年間、妻子に生活費を全く渡していません。さらに長女の結婚、孫の誕生、義母(妻の母)の逝去……いずれの場面も夫不在、父不在で迎えざるをえず、寂しい思いをさせたという自責の念もあります。亮一さんは自宅療養中、過去の人生が走馬燈のようによみがえったとき、家族を捨てた罪悪感が頭をよぎったそう。「彼女たち(本妻と長女)には悪いことをした」と。
そのため、筆者の提案に対して亮一さんは本妻、長女にも遺産を残すことを望みました。そして本妻、長女、美穂さんは均等に3分の1ずつ分けることに決めたのです。そして本妻、長女に遺産分割の手続を任せた場合、美穂さんがどんな目に遭うかわかりません。そこで筆者は「遺言の執行人(相続人を代表して遺産分割の手続を行う人)を美穂さんにしましょう」と提案し、亮一さんと美穂さんは承諾しました。
それから2週間。筆者は文面を作成し、美穂さんは印鑑証明、戸籍謄本等の書類を入手し、筆者は書類をもとに公正役場へ連絡し、公正証書化する準備を進めました。そして署名当日、車椅子で現れた亮一さんの姿に筆者は愕然としました。亮一さんは自らの足で歩くことが困難になっていたのですが、わずか2週間でこんなに悪化するなんて……。
亮一さんが公正証書に署名する場所は公正役場ですが、エレベーターがない建物の2階。バリアフリー化された役場を選ばなかったことを悔やみました。結局、筆者と美穂さんが亮一さんを抱えて2階に運びました。そして亮一さんは公正証書遺言の手続きを無事、終わらせることができたのです。
早め早めに「終活」の準備を
しかし、人生で最後の仕事を終えたことで残された力を使い果たしたのでしょうか? 亮一さんは5日後に突然倒れ、救急車で搬送され、そのまま帰らぬ人に。筆者が亮一さんに会ったのは2回だけですが、どんな事情でも依頼者が亡くなるのはショックです。同時に「間に合ってよかった」と安堵したのも確かです。
こうして亮一さんは美穂さんへの感謝の気持ちを遺産という形で残すことができたのですが、亮一さんのように妻との縁切りを別居で済ませ、離婚まで行わないケースは決して珍しくありません。なぜなら、別々に暮らし、連絡をとらず、存在を感じない生活は別居でも離婚でも同じだからです。しかし、別居と離婚の違いは戸籍です。別居先で新しい彼女と結びついた場合、「まだ妻が戸籍に入っている」という理由でさまざまな問題が生じます。
今回の相続はあくまで一例。新しい家庭を持つ場合は古い家庭にけじめをつけるのが第一ですが、どうしても難しい場合は遺言を含め、「終活」を行う必要があります。もちろん、亮一さんのように土壇場で慌てたりせず、早め早めに準備しておくのが肝要です。