語学に堪能、上智大生活を謳歌
英英辞典、メディア関係の本、ブーツ、ヘアドライヤー、ブランドのバッグ、使い捨てカイロ、化粧水……。
段ボールからひとつひとつ遺品を取り出し、賢二さんがテーブルの上に並べていく。
「事件から数週間後、留学先へ送っていた荷物が警察へ戻ってきたんです。それを遺族立ち会いのもと、ひとつずつ確認させられました。留学への期待と、ちょっぴりの不安が入り交じった気持ちで順子は荷造りしたんだろうなと思ったら、遺品を直視できなかったですね」
そうしんみり語る賢二さんは、終戦後間もない昭和21年、事件現場と同じ葛飾区柴又で生まれ育った。5人きょうだいの末っ子で、左官の父親が53歳のときに生まれた子どもだった。その父親から地元の中学を卒業するころ、こう告げられた。
「お前を大学には行かせてあげられない。だけど、これからの世の中、高校は出ないと勤められないから、公立なら行かしてやるよ」
絶対に合格しなければとランクを落として工業高校の機械科に入学した。卒業後は機械や金属の精度を検査する財団法人に検査官として就職。4年ほど勤めた後、コンピューター関係の大手企業に転職し、新橋の職場に通ってデータ処理業務に携わった。
そのころ、先輩が連れていってくれた新宿のダンススクールで、同じ年の幸子さんと出会い、間もなく交際が始まった。ところが賢二さんが北海道へ転勤となり、電話や手紙での遠距離恋愛に。幸子さんも北海道へやってきて、アパートでの同棲生活が始まったが、幸子さんの妊娠が判明して入籍した。
2人は東京へ戻り、昭和46年夏に長女が生まれ、その3年後に体重約3600グラムの順子さんが生まれた。
順子さんは小中学生のころ、成績が目立ってよいわけではない、ごく普通の女の子だったと、賢二さんは振り返る。
「家ではお母さんに甘えん坊で、髪の毛結んで! あれやって! これやって! とねだっていた姿が懐かしいです」
そんな順子さんは、江戸川女子高校の英語科に入学したころから、語学の才能を開花させた。2年生のときに英検2級を取得し、大学受験では受けた大学すべてに合格。第一志望の上智大学に入学する。娘の大学進学については、賢二さんの中で特別な思いがあったようだ。
「僕は大学を出ていないから、キャンパスライフというものに憧れがあったんです。だから自分の子どもにだけは、向学心さえあればどんどん上の学校に行かせてあげたいと思っていました。上智の合格通知をもらったときは、順子より喜んでいましたね」
順子さんが英語学科で所属したのは最もレベルの高いAクラス。周りは帰国子女ばかりで、学生同士が英語で会話する環境だったため、入学当初は「ついていけない」とこぼしていたという。サークル活動は、小・中学生に英語を教えるボランティアサークル「サマー・ティーチング・プログラム(STP)」に参加し、夏休みには新潟で活動を楽しんだ。
3年時に専攻した東南アジアのゼミでは、1週間かけてタイ、マレーシアなどへ調査に出かけた。充実したキャンパスライフを送る順子さんに対し、賢二さんはいつも寛容だった。
「門限を設けなかったんです。大学だったらコンパもあるだろうし、中座するような思いはさせたくなかった。その代わりに条件をつけました。節目節目で電話連絡だけはしなさいと」
たまに、終電に間に合わないような時間帯に電話がかかってくるときがあった。夜道を歩かせるわけにはいかないと、就寝間際の賢二さんはパジャマから着替え、自転車を漕いで高砂駅まで迎えに行った。
「僕は『なんでこんな時間まで!』とは決して叱りませんでした。自分が経験していない大学生活を謳歌しているんだなという思いで見守っていたよね。それで順子と2人、駅からの道を歩いたんです」
賢二さんは懐かしそうに目を細めながら在りし日を語った。
「会話は特にありませんでしたが、よく言えば気持ちが通じるっていうか。もしタイムスリップできるなら、あのころにもう一度戻ってみたいなっていう気持ちはありますね」
将来はジャーナリストを目指し、地方放送局の東京支局でアルバイトをしていた順子さん。その夢は、あの日を境に無残にも砕け散った。