明治時代から130年続く時効を廃止
殺人事件の被害者遺族の中には、メディアの取材に消極的な人が少なくない。たとえ受けたとしても、顔を出す、出さないに分かれる。出すことで、世間から好奇の目にさらされる可能性があるためだ。賢二さんは発生から3年間、取材は受けなかった。
「口を滑らしたら犯人の証拠隠滅につながるから、メディアには出ないでほしいと警察から止められていました。3年たってそれが解禁され、また事件の風化も心配だったので、以降は取材にはすべて応じてきました」
しかし「顔出し」は自粛した。一方で事件の捜査は、現場の放火によって物証が極めて少なかったため難航を極めた。
その後の調べで、順子さんの両手などに巻かれていた粘着テープは、粘着面に犬の毛や植物片などが付着していたことがわかった。家では犬は飼っていなかったため、犯人が着衣などを通して外から持ち込んだ可能性がある。
順子さんの両足が縛られたストッキングは「からげ結び」と呼ばれる、特殊な結び方が使われていた。
玄関近くで見つかったマッチ箱に付着していた微量の血液、順子さんにかけられた布団に付着していた血液からそれぞれ検出されたDNA型が一致し、犯人の血液型はA型であることも判明した。
自宅玄関前では、不審な中年の男が目撃されていた。身長約150~160センチで、黄土色っぽいコートを着ていた。
犯人像はおぼろげながら浮かび上がったものの、特定には至らないまま年月が流れ、賢二さんは「顔出し」を決意する。その転機が訪れたのは、発生から12年目を迎えた、2008年夏のことだった。当時、凶悪犯罪の時効は15年と定められていた。2004年の刑事訴訟法改正で25年に延長されたものの、「不遡及の原則」により、改正以前の事件には適用されなかった。ゆえに順子さんの事件は時効15年のままで、タイムリミットまであと3年に迫っていた。
時計の秒針が刻一刻と過ぎゆく中、賢二さんは、付き合いのあった大手新聞社の記者を通じ、警視庁成城署署長を歴任した捜査一課のOB、土田猛さん(74)=宙の会特別参与=を紹介された。そこで意気投合し、時効制度の廃止に向けた水面下の動きが始まった。賢二さんが回想する。
「殺人事件の被害者遺族にとってこんな理不尽な法律はないと訴えたい。にもかかわらず、呼びかける相手にこちらの顔が見えずにわれわれの思いが通じるだろうか。そう土田さんに説得されたんです」
同年9月に行われた献花式の場で、時効制度廃止の意義を伝える文書をメディアに配布。続く12月、世田谷一家4人殺害事件(2000年12月末発生)に関する集会で、賢二さんは司会を務めた。その場に同席していた土田さんが振り返る。
「その時に印象的だったのは、小林さんが順子さんの遺影を持ってきたことです。世田谷事件の集会だったから、報道陣も『あれ』っと思ったのではないでしょうか。何としても自分の事件を知ってもらいたいというなりふり構わない小林さんの姿勢から、無念の気持ちはやはり、相当に強いと感じました」
年が明け、'09年2月末に「宙の会」が結成された。初代会長には、世田谷事件の遺族、宮沢良行さん(享年84)、代表幹事に賢二さんが就任した。メディアの呼びかけも奏功し、集まったのは16の事件の遺族。ここから時効廃止に向けた動きが本格化する。署名活動を展開し、わずか1か月の間に約4万5千筆が集まった。
当時の森英介法務大臣に提出して気運が高まったかに思えたが、同年夏の政権交代で議論は白紙に戻った。だが決して諦めることなく訴え続けると、再び追い風が吹いた。法務省の法制審議会で公訴時効見直しの審議が始まり、同審議会総会で賛成多数により採択されたのだ。
これで時効廃止に向けた改正法案の成立が現実味を帯びてきた。'10年4月の衆議院法務委員会には、賢二さんが参考人として国会に招致された。与えられた時間は15分。土田さんと推敲を重ねた原稿を手に、こう訴えた。 「殺された者は再び生きて帰ることはありません。しかし、この世に正義が存在するなら、犯人に対し被害者の生命の尊厳に替わりうる鉄槌を与えて当然と考えます」 「私たち遺族の犯人への憤りは増すことがあっても薄れることは決してありません。他方、このような殺人事件が1件でも少なくならないかという強い願いがあります。その根底には、殺害された者そして遺族となった私たちと、同じような無念の生涯を味わっていただきたくないという思いがあるからです。そのためには、時効制度を撤廃し、人を殺害したら厳刑に至るという条理が保たれてこそ叶うものと考えております」
この4日後の衆議院本会議。
「賛成する諸君の起立を求めます」
一斉に議員が起立する。
「起立多数。よって本案は可決決定いたしました」
議場内に拍手が響き渡り、賢二さんは涙がこぼれないよう、天を仰いだ。明治時代から130年続いた時効制度が廃止となった歴史的瞬間だった。間もなく記者会見が始まり、その日の晩は遺族一同、勝利の美酒に酔いしれた。