1000時間分の映像を見直して
事実、立川流には事あるごとに「私に談志が降りてきた」と口にする立川志らくがいる。直系の弟子以外では、爆笑問題の太田光が談志さんを意識するかのような“言い捨て”を見せることがしばしばだ。こういった芸人たちを“談志になりたい病”と称する人もいる。
「私、太田くんに『とはいっても、談志が死んでホッとしてるでしょ?』って聞いたことがあるんです。苦笑いしてましたけどね(笑)。言っていいかわからないけど、それを強く感じる人は実際に何人かいます。志らくさんだってそうだと思うんですよ。だって、談志がいなくなってからみんな売れたじゃないですか?
頭の上の重しがなくなったから。いなくなったことによる寂しさはもちろんあるけど、パパが生きていたらそこまで弾けられていないだろうなって。太田くんに言った『ホッとした』、つまり“楽になった”という言葉は、本人にすごく通じていると思いますよ」
逆に言えば、死してなお強烈な談志さんの存在感だ。それは、実の娘であるゆみこさんにとっても同様だった。
「没後10年に際していろいろなことをやったけど、パパは『それでいいんだ』って労ってくれていると思います。弟(談志さんの事務所で社長を務める松岡慎太郎さん)は『ザ・ノンフィクション』を作るために1000時間分の映像を見直したし、私はパパとの思い出を書くエッセイの連載を始めました。
幼いころからのことを思い出しながら作業して、書いている間じゅうはパパのことにずっと取り憑かれていました。『これは天国にいるパパに“させられてる”な』と感じることが多かったです。でも、こうした作業を投げ出さないのは愛があるからだと思う。やっぱり、私はパパのことが好きなんだと思います」
没後久しくなっても、世間にも、家族にも愛され続けている立川談志さん。人生の可笑しさ哀しさやるせなさを体現した、まさに落語のように魅力的な存在だったのだ─。
ゆみこさんが選ぶ談志さんの言葉
「銭湯は裏切らない」
「行って裏切られることはまずないじゃないですか。あと、パパはお弟子さんに『清潔でいろ』といつも言っていて。談春さんは『300円しかなかったら、牛丼を食べられたとしても叱られるから銭湯を選んだ』って」(ゆみこさん、以下同)
「嫌なことはしないほうがいい」
「人生を楽にしてくれる言葉だけど、よく考えたら逆に大変ですよね。仕事は納得いくものを選ばないとダメだし、生き方のハードルが高くなる。『妥協するな』『自分を貫けるよう頑張れ』という意味も含まれています」
「こんなに腹が立つのは俺にそっくりだからだ」
高校時代、夜遊びに夢中だったゆみこさん。談志さんは娘を更生させようと、馬乗りになって娘をボコボコにした。「『なんでこんなに腹が立つ?』と考えたパパの結論が『俺にそっくりだから』だもん。殴る前に気づいてよ(笑)」
松岡ゆみこ
1963年、立川談志さんの長女として東京都に生まれる。「松岡まこと」の名で1年間だけ芸能活動をしていたことも。著書に談志が息を引き取るまでの9か月間を記録した『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)がある。現在、東京日本橋・お江戸日本橋亭でほぼ隔月開催される「ゆみちゃん寄席」を主催。
〈取材・文/寺西ジャジューカ〉