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ー 不思議な10年間の結婚生活

 

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、自身の不思議な結婚生活を振り返る。

『細うで繁盛記』(1970年 日本テレビ系)、『パパと呼ばないで』(1972年 日本テレビ系)などに出演した後、私は脚本家である林秀彦(故人)との結婚を機に、芸能界を引退した。

不思議な10年間の結婚生活

 当時、私は35歳。エッセイや小説の執筆といった活動は続けていたものの、10年後の1984年に離婚するまで、ドラマや映画には一切出演しなかった。句会も欠席。

 それまでいろいろな作品やCMに出演させていただいたこともあって、貯金もそこそこあった。「これだけあれば暮らせるだろう」。そんな考えもあって、私は表舞台から降りることを決めた。

 最も脂が乗るだろう時期に家庭へ入る。もし、このとき女優を続けていたら、また違った人生があっただろうなとは思う。実際、いい舞台や有名監督さんからお話をいただくなど、たくさんオファーがあった。親交のあったプロデューサーからは、「もうそろそろいいのでは」と家まで直談判されたこともあった。

 でも、夫が、私の芸能活動を嫌がったため、いざこざを恐れて私は結婚すると決めてからすっかりその気をなくしていた。確かに、そのときの私は娘・リズの子育てに夢中だったから、撮影のために何日も家を空けることはとんでもないことだった。

 でも、女優を続けていたらできなかっただろうPTAの役員など、新しい役柄を演じているようで楽しかった。生活が変わるということは、新鮮な時間を過ごすということ。だから、その選択に後悔はない。閉門蟄居の生活。

 ただ、前夫は後悔していたような気もする。脚本家である以上、多様な作品に出演することは、女優・冨士眞奈美の成長につながる─そうわかってはいたと思う。縁は異なもの味なものとはよく言ったもの。振り返ると、本当に不思議な奉仕生活、10年間の結婚生活だった。

 彼は、私が芸能活動を続けることは嫌がったけれど、俳優仲間の伊丹十三さんや石立鉄男さん、棋士の方々が遊びに来ることはまったくOKだった。むしろ、一緒に遊ぶことを楽しんでいた。そのため、ほぼ毎日、誰かしらが来訪する。多いときは20人くらいの人が集まるなんてことも。

 そのころ道でばったりお会いした大御所の長岡輝子さんが「あなた元気なのね。元気なときは遊ぶのがいちばん。病気になったら女優に戻っていらっしゃい」とおっしゃり、なるほど、と思った。

 リズは、学校の先生に「今朝は何を食べたの?」と聞かれたとき「ピーナッツと柿の種」と無邪気に答えたとか。お客さまにお出ししていたおつまみの残りを朝つまみ食いしていたというわけ。もちろん朝ごはんも作っていたのよ。それくらいひっきりなしに来客があった。

 中でも、いっちゃん(歌手の荒木一郎)は、しょっちゅう私たちの家に遊びに来ては、プロはだしの腕前のカードマジックを披露してくれた。

 あるとき突然、作家の森茉莉さんから電話がかかってきたことがあった。面識がなく、びっくりした。文豪・森鴎外の娘さんである森さんは、いっちゃんの大ファンでも知られていた。ある雑誌から「荒木一郎について寄稿してほしい」とオファーがあったとのこと。「私よりもあなたのほうが詳しいからあなたが書くべきだ」とおっしゃる。

 私は少し怯えながら「滅相もないです」と伝えると、次第に森さんは饒舌になって、笑い出したり、泣き出したり……大変だった。突然の電話、面識のない間柄。リズを幼稚園に迎えに行く時間が迫っていく。なのに、1時間以上長い付き合いの友人のように話し続ける。独特な感性を持つ作家として知られていたけど、電話口で大いに納得したのだった。

 それにしてもいっちゃんはすごい。私がいっちゃんについて書くことはなかったから、結局、森さんが書かれたのかなぁ。それすらもわからない、森茉莉さんらしい幻想的なお電話だった。

 ふじ・まなみ ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

〈構成/我妻弘崇〉