約1年後、尾崎は東京ドームで復活の舞台に上がることとなるが、江口はこのライブに参加しなかった。
「尾崎から“復活するから、お願いします”って電話をもらったんですが、すでに別のアーティストのツアーに同行することが決まっていて。残念ながら、お断りすることになってしまったんです。もちろん一緒にやりたかったけど、東京ドームで彼についたのは一流のミュージシャンの方ばかり。尾崎がそんな人たちとライブをするのはとても嬉しかったし“よし、僕も頑張ろう”と清々しい気持ちになったのを覚えています。そうすれば、どこかで再び一緒にやれるんじゃないかと思って」
ステージでの再会はかなわなかったけれど、またいつか……という思いは、儚(はかな)く散ることとなる。'92年4月25日、江口のもとに届いたのは尾崎の訃報だった。
ヘッドホン越しに“尾崎が死んだ”と聞いて…
「その日は何の偶然か、彼のデビューライブでバックバンドを務めたメンバーが久々に集まり、レコーディングをしていたんです。僕のギターソロを収録しているとき、ヘッドホン越しに“尾崎が死んだ”と聞いて……。言葉では言い表せない、複雑な気持ちになりました」
突然すぎた相棒の死から30年が過ぎようとしているが、今でも尾崎の偉大さを日々感じるという。
「仕事で各地をまわりますが、尾崎のことはどの世代の誰でも知ってる。そんなミュージシャンほとんどいませんよね。どえらいやつだったんだなと思います。尾崎豊という人間を心の中に留めて生きていきたいし、僕も彼の音楽をこの世界に少しでも伝えていくことが生きがいです。僕の人生は、彼に作ってもらったようなものなので」
尾崎の姿が心に焼きついているのは、ステージ上の仲間だけではない。プライベートで親交の深かった元プロレスラーのキラー・カンが、彼の素顔を明かす。
「当時は新宿に私が経営する『スナックカンちゃん』があって、尾崎さんが通う車屋さんのオーナーが彼を連れて来たんです。ある日、本人の前で彼の曲を歌うお客さんがいたとき、尾崎さんがデュエットしたんです。お客さんが写真まで撮ろうとしたから私は制したんですが、尾崎さんは“いいんですよ”って気さくに対応してました。私が演歌を歌ったときは“一緒に歌いましょう”と入ってきたことも。三橋美智也の『哀愁列車』という曲で、彼は知らなかったんじゃないかな」
お店には、尾崎が愛した味があったという。
「スタッフのまかない用にカレーを作っていたんですが、それを尾崎さんに気に入っていただき、必ずシメで食べるようになったんです」
晩年も変わることなく足を運び、元気な姿を見せていた。
「亡くなる8日前も来てくださってたんですが、車屋さんから電話で訃報を聞いて。冗談もほどほどにしてほしいと思いましたが、残念ながら本当だったんだよね……。生前は、バンド仲間を何人も連れてきたりして、気さくで紳士的な、いい青年でした」
ステージ上で数々の伝説を残す一方、プライベートでは穏やかな顔を見せていた尾崎。多くの人に愛されたその姿は、これからもずっと語り継がれていく。
【OZAKI THE PARTY】 4月24日(日)、尾崎豊の没後30周年ファンイベントが『インド料理ムンバイ 四谷店』で開催される。見どころは、尾崎と深い友情で結ばれたキラー・カンの闘病後初のお目見えと、尾崎が愛したカレーの復活祭。尾崎の小学校、中学校からの同級生や先輩、後輩が集まり、『新宿ルイード』でのデビューライブのころのような盛り上がりを見せる。