「野垂れ死にせえ」父親からの言葉に……

 テニスは、コストがかかるスポーツとしても知られる。仕事を捨てフロリダに移住したことで、生活はさらに苦しくなった。

 著書『トンネルの向こうへ』の中では、いまだに“白人のスポーツ”と見られているテニスを、アジア人が熱心に練習していることに対して人種差別的な言動を向けられたことも綴られている。心が折れそうになったことはなかったのか?

“おまえなんて、アメリカでホームレスになって道端で野垂れ死にせえ”。電話を切るとき、必ず父から言われた言葉でした。

 孫であるまりやなおみと話すときは、優しいおじいちゃんなのに、私にかわるといつも厳しい言葉を投げつけ、そのたびに私は泣いていました」

 身勝手な人生を歩む娘を、父親は許してはいなかった。

「当時は極貧で、本当に家がなくなるかもしれない状況。父の言葉は、刺青のように深く私の頭に刻まれたんです。絶対に見返してやる。父への反骨心が、私を支えていました

娘たち2人には〝優しいおじいちゃん〟だったという環さんの父親。しかし、父と娘の心の溝は長い間埋まることがなかったという
娘たち2人には〝優しいおじいちゃん〟だったという環さんの父親。しかし、父と娘の心の溝は長い間埋まることがなかったという
【貴重写真】環さんの手編みマフラーを巻きながら雪だるまを作る幼少期の大坂なおみ

 メラメラと闘争心を燃やす環さんは、姉妹がマックスさんと遠征に行くときも、1人働き続けた。プロテニスプレーヤーにすべく、身を粉にして、そのすべてを捧げた。

 ときにマックスさんは熱が入るあまり、姉妹に対して厳しい指導を行うこともあったという。そんなとき、母親として娘たちとの距離の取り方はどうしていたのか?の問いに、「距離なんてない」とあっけらかんと環さんは話す。

お互い何でも言い合う関係性でした。私も疲れていたり、つらいことをしゃべったりする姿を、娘たちに見せていた。でも、2人には少し見せすぎてしまったかなって反省しています(苦笑)。子どもたちは、私の心の拠り所だったから、距離感なんてなかったんです」

 昨年、なおみさんのドキュメンタリー番組が、ネットフリックスで制作された。その中で、なおみさんは努力を続けられた理由を、「お母さんを楽にさせたかったから」と答えている。子どもたちにとっても、環さんが心の拠り所だったことは、想像に難くない。

 トンネルの中で立ち止まらずに、愚直に進み続けた結果、まりさん、なおみさんは、念願だったプロテニスプレーヤーとなる。2014年7月には、なおみさんが全米オープン女王のサマンサ・ストーサーから大金星を挙げ、光が差し込む。

 反面、まりさんは伸び悩んだ。子どもたちに才能の差が生まれたとき、親はどう接するべきか? 「とても難しい問題」と、一拍置いて話を続ける。

考え方が父親と母親は違うと思うんです。父親は、秀でているほうにより力を注ごうとする。でも、母親としては、なかなか上がれない子どもにパワーを使いたいと考える。夫からは、そのパワーをなおみに注いだほうがいいと言われたけど、私にはできなかった」

 マックスさんは、なおみさんとツアーの行動を共にする機会が増えたことで、まりさんは1人でツアーに出向くようになる。身を案じた環さんは、別途、コーチを雇い、まりさんを支えた。

「伸び悩んでいる子に寄り添うことはとても大切なこと。まりは優しすぎるところがあるんです。でも、なおみは私に似て、“負けたくない”という闘争心が強かった」

 その言葉どおり、なおみさんは勝負の世界で結果を出し続ける。そして、2018年、憧れだったセリーナ・ウィリアムズを下し、20歳でグランドスラム初優勝を果たした。それを機に環さんは確執のあった父親とも雪解けした。その後の活躍は、周知の事実だろう。