1987年、中森家は埼玉県内に地上3階建てのビルを建てているが、これにも明菜は疑問を持った。
「たしかに明菜のお金ですが、これは税金対策で建てたビル。そこで私たちが中華料理店などを開いたのですが、明菜はこの開店資金も自分のお金が使われたと思ったようです。でも、そうではない。父の実家は結構裕福な農家で、祖父が亡くなったときに多額の遺産が入りました。お店を作るのも備品をそろえるのも、全部遺産で賄っていたのです」
さらにはこんな親心があったと明かす。
「このビルは、いずれ明菜の手に渡る予定でした。芸能界で稼げていても、いつか歌えなくなって、売れなくなる日がくるかもしれない。父はそう思い、明菜が老後に家賃収入で生活できるようにと思って建てたのです。結局は売却してしまいましたが」
娘を思う気持ちが裏目に出た。明菜は家族への“不信感”を募らせていくが、それを植えつけた“犯人”がいた。
「事務所に聞いた話だと、最初のマネージャーが明菜のお金を持ち逃げしたそうなんですが、それを“家族が使い込んだ”と明菜に吹き込んでいたというんです」
関係者は「明菜について話さない」
当時の『研音』関係者に改めて聞いたが、
「明菜には2人の現場マネージャーがいましたが、そんな話は聞いたことがありません。私が辞めた後のことだと思います。よっぽどやましいことでもあるのか、事情を知る関係者はみな“明菜については話さない”と言っています」
と答えるだけだった。
それでも兄は、幸せだった明菜の笑顔をよく思い出すという。家族が営むカラオケスナックに、当時恋人だった近藤真彦と訪れたときのこと。
「僕が調理をしていて、ラザニアを作って出したんですよ。すると明菜は“おいしい!!”ってすっごく喜んでくれてね」(前出・実兄、以下同)
結婚するかもしれない。そんな思いを持ったと話すが、現実は残酷だった。1989年7月、明菜は近藤の自宅マンションで自殺未遂を図った。
「あのころマッチが明菜から別の女性タレントに乗り換えたようなんです。松田聖子さんではありません。明菜も最初は浮気だと思っていたのに、乗り換えられたとわかって刃物でひじの内側を……」