“売れない自分”がどうにも歯がゆく、父の前で弱気な姿を見せたこともある。
「20歳になって3枚目のシングルを出したけど、やっぱり1位にはなれない。悔しくて、家族の前で思わず涙をこぼしてしまったことがあって。そのとき親父に“おまえまだ20歳だろ、やめちまえよ。まだやれることはいっぱいあるぞ”と言われて、それで少し肩の力が抜けた感覚がありました」
『な・ま・い・き盛り』を機に、仕事内容も変わっていった。ドラマ出演のオファーが急増し、役者に比重が傾くと同時に、レコード会社との契約をいったん打ち切ることに。
“芝居に専念するため”という事務所の意向だが、「ショックでしたね」と振り返る。
「今と違って当時のアイドルというのは歌がメイン。アイドルの事務所なのに自分は歌はダメだと言われた気がして、ここにいてはいけないのでは、と思い悩むようになりました」
ユーはどこに行っても絶対大丈夫
ジャニーズ事務所を退所したのは26歳のとき。退所日のことは今も鮮明に覚えている。
「メリー喜多川さん、少年隊、近藤さんに挨拶をしました。けれどいちばん挨拶したかったジャニーさんがいない。どうやら逃げ回っているらしい。あちこち探し回って、最終的に麻布のスタジオで捕まえて。“今日までありがとうございました!”と挨拶したら、“ユーはどこに行っても絶対大丈夫だから頑張りなさい”と言ってくれて、もう涙がボロボロあふれて止まりませんでした。あの言葉があったから今までやってこられたと思っています」
事務所を円満退所し、新たな仕事も得た。だがテレビをつければ後輩たちの活躍が否応なく目に入り、焦燥感にかき立てられる。何を見てもプレッシャーにしかならない、そんな日々が2年近く続いた。
「このままではダメだと思ったけれど、ずっと芸能界にいて、気づけばアルバイトすらしたことがなかった。でもアイドルだった自分が普通にバイトでもしていたらファンをがっかりさせてしまう。つぶしがきかない自分を思い知らされ、ならば海外で改めて社会勉強をしようと考えて」
28歳のとき渡米。現地の語学学校に通う傍ら、アルバイトをして生活費を稼いだ。2年間のアメリカ留学を経て帰国し、心機一転、芸能活動を再開。ドラマに舞台と活躍の場を広げるも、40代に入り再び芸能界を離れることになる。
「45歳から46歳の1年間、建設の仕事をしてました。当時所属していた事務所の問題で急に仕事がなくなり、途方に暮れた時期があって。抵抗がなかったと言ったら嘘になるけど、これも社会勉強だと。この先、建設で働き続けることになったらそれは自分の運命だ、受け入れようなんて思ってたけど、やっぱり戻ってきちゃうんですよね(笑)」