演出家の夢を追いダンサーに
社会に適合できるかという恐怖心を抱えながらも演出家になる夢を追い続け、1978年には“ダンサー”としてデビューを果たす。
「演出家から最も近い場所で現場を勉強したかったので、ダンサーになったんです。稽古では誰よりも遅くまで残り、演出家はどんな言い回しをすると役者に意図を伝えられるのかをじっと観察していました。NHKの『紅白歌合戦』のバックダンサーのオファーをもらったこともありましたが、“演出家になりたいので”とお断りしたら、ひどく怒られたのを覚えています」
ダンサーデビューから9年後の1987年、自身が制作・演出を担当した『アイ・ガット・マーマン』で、ついに演出家としての初演を迎えた。しかし、初日の観客は、150人入る劇場の半分も埋まらなかった。
「友人も見にきてくれましたが、前列の真ん中の席で開演してすぐ寝始めたんです。華々しいスタートでは全然なかったですね」
それでも、初日の評判が関係者の間で広まり、2日目には満席、3日目には立ち見席が出るほど大盛況に。
『アイ・ガット・マーマン』はその後ロングラン公演を実現し、これを機に、演出家としての活動の幅を大きく広げたのだった。
今年で演出家デビュー35周年を迎えるが、ここまで長く続けてこられた秘訣を聞くと、意外な答えが返ってきた。
「いい意味で、僕はいつ人生が終わってもいいと思っています。'19年に前立腺がんが見つかったときは不安になりましたが、思い返してみれば、周りの人が突然死んだり、自分がタイで交通事故に遭って瀕死の状態になったり、死はそれほど遠くない存在だったなと。生きているというのは、誰だっていつ死んでもおかしくないという意味でもあると強く自覚するようになりました。だから、人生を逆算せず、一瞬一瞬に集中して生きるようにしているんです」