60歳で前立腺がんを患う
「僕は60歳で前立腺がんになり、昨年の10月には下垂体腺腫の手術をしました。それを番組で話したら、楽しいメールばっかりくれていた人が実は壮絶ながんとの闘いをしていたり、リスナーの中にも同じような経験をされた方が多いことがわかって。
“下垂体腺腫って何なの?”という感じだったのですが、“私も下垂体の手術しました”という人も、今で15人ぐらい。“今は普通の生活をしていますよ”っていうメールをいただくのも、ものすごく力を与えてくれますよね。
大病した人が頑張っていることを知ると“俺も負けてられないな”と思います。だから、同じように大病をした人は、“何回も手術してるけど、朝早く、というより夜中に起きてしゃべってる人がいるんだから、私も頑張ろう”って思っていただければいいなっていうふうに思いますね」
番組は今春で7年になる。
「担当した中ではいちばん長いんじゃないですかね。どのくらいまで続けられるかは聴いている方の判断ですから、“もういいよ”って言われたらそれはそれ。でも、やれるところまでやりたいなと思いますし、これが終わったらきっと次のレギュラーはもうないですから。ここで自分のしゃべり手としての人生を終えられたらいいなと思ってますけどね」
テリー伊藤から学んだ信念
上柳の“しゃべり手”としての信念は、テリー伊藤から学んだという。
「テリーさんがとにかく元気だったころ、'98年から'02年に『テリーとうえちゃんのってけラジオ』という昼の番組をやらせていただきました。僕はちょっとひねくれていたり、斜に構えたりするんですけど、テリーさんはすごく前向きで、すべてを“いいじゃないですか”って肯定する方。そういうところが本当にすてきだなと思ったんです」
テリーは日本大学に通っていたころ、学費値上げ闘争のデモ隊に参加していた。
「当時の新聞に載っている写真を見ると、テリーさんらしき姿があるくらい、学生の先頭に立って闘っていたんです。でも、学生が投げたであろう石が目に当たってしまい……。失意のうちに入院していたときに、巨人対阪神戦の中継をラジオで聴いたそうです。その試合で、王貞治さんの頭にデッドボールが当たって、命の心配をされるくらい昏倒(こんとう)してしまって。騒然とする中、次の打席の長嶋茂雄さんがホームランを打ったんです。それを見てテリーさんは、“この人に一生ついていこう”と思ったそうです。
なので、長嶋さんがジャイアンツの監督になったときにものすごく興奮して、“日本一になったら、東京ドームから長嶋さんの家まで、リスナーとみんなで提灯(ちょうちん)行列をする”って。僕は、はじめ“できるわけがない”というスタンスでした。でも、乗っかったほうがおもしろいと思って、“やりましょう!”と、2人で荒唐無稽なことを言うようになったんです。
それで、'00年に巨人が優勝すると、ニッポン放送のスタッフが一丸となって準備をして、結果的に東京ドームやミスターの家は行けませんでしたが、駒沢公園から多摩川の河川敷まで、何千人という人たちとの提灯行列が実現したんです。交通情報では、“デモ行進があって渋滞しています”と流れて、“俺らだよね!”と盛り上がったり、渋滞の車はテリーさんを見てゲラゲラ笑っていたり(笑)。」
ゴールの河川敷にはステージが用意されていた。
「みんなで一斗樽(だる)を割ろうとしたら、車がスーッて河川敷に入ってきて、そこから長嶋さんが降りてきたんですよ。これはすごかったですね。テリーさんも僕も泣いちゃいましたし、リスナーも大喜び。それを見たミスターがいちばん喜んでくれて。普通だったら、“許可がおりるわけがない”“常識で考えろよ”ってなりますよね。
ですが、こういう姿を見て、“俺たちがそれを言っちゃおしまいだよ”という“テリーイズム”を教えていただきました。“そんなのできないよ”とか“前例ないですから”というのはよくあること。でも“絶対どこかに抜け道がある”とか“絶対おもしろくなる”と考えるようにしようと。
とはいえ、それも意外と難しいんですよ。企画だって、“前もやった”とか、“できるわけがない”と、なんとなくまず否定から入っちゃうじゃないですか。それでも、なんとかやれる方法をみんなで集まって考えて……ということを、若い人たちにも経験してほしいなと思います」